プロローグ 「笑う前の顔」
夜の封鎖区画は、昼より静かで、昼より気持ち悪い。
灯りの落ちた商店街。割れた看板。ひっくり返った自転車。誰もいない横断歩道。たまに吹く風だけが、店先の旗をかさ、と鳴らしていく。
その真ん中を、詩乃は走っていた。
いや、走るというより、滑っていた、の方が近いかもしれない。足音を立てずに、影から影へ。手には短刀が二本。細くて軽い。けど、切れ味だけはちゃんと重い。
前方、路地の角。
人型残滓が一体。
兵骸種より小さい。人の形に近い。でも近いだけで、人ではない。顔のある場所がぬるっと黒く抜けていて、指先だけがやたら長い。
気持ち悪いな、と思う。
でも、それだけだ。
怖くはない。
詩乃は足を止めなかった。
残滓がこちらへ気づくより先に、死角へ入る。右。半歩。息を止める。相手が首を動かす、その瞬間に背中へ回る。
斬る。
短刀が一閃。
細い首が、音もなく落ちた。
残滓の身体がゆっくり崩れる。血は出ない。代わりに、黒い粒みたいなものがさらさらと散る。
詩乃はそれを見下ろした。
まだ終わりじゃない。
奥にもう二体。
曲がったアーケードの下、ひび割れたタイルの上を、人型残滓がゆっくり歩いてくる。二体とも、頭の向きが微妙に揃っていた。見ている場所が同じだ。
詩乃がいる場所じゃない。
もう少し右。
「……見えてないんだ」
小さくつぶやく。
だったら、楽だ。
詩乃は一歩下がって、古びた自販機の陰へ体を沈めた。視線を切る。呼吸を薄くする。存在感を自分で少しだけ削る。
すると、二体の残滓が迷ったみたいに立ち止まった。
そこだ。
詩乃は床を蹴った。
左の一体へ先に入る。喉元。浅く斬る。振り向く前に反対側へ抜ける。すれ違いざまにもう一体の膝裏を切る。体勢が落ちる。最初の一体がこちらへ腕を伸ばす。遅い。
詩乃はくるりと半回転して、二本の刃を同時に振るった。
ひとつは首。
ひとつは心臓の位置。
両方入る。
二体の動きが同時に止まる。
崩れる。
黒い残滓が夜風に混ざって、すぐ見えなくなる。
「……うん」
詩乃はそこでようやく息を吐いた。
終わった。
任務完了。
小規模残滓反応の掃討。でも、こういう地味な夜の任務の方が、いやなものは見えやすい。
静かだから。
終わったはずなのに、詩乃は少しだけ、その場に立っていた。
倒した残滓の消え跡を見ている。
黒い粒が風で流れていく。
なんでもない。いつものこと。何度も見てきた光景だ。
なのに、今日だけは少しだけ違った。
胸の奥に、変な熱が残っている。
怖くはない。
気持ち悪くもない。
むしろ逆だった。
「……あ」
詩乃は自分の口元に触れた。
指先が、少しだけ止まる。
笑っていた。
ほんの少し。ほんの少しだけだったと思う。けど、たしかに、今、最後の二体を落とした瞬間、口元がゆるんだ。
楽しかった。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、ぞわっと背中が冷えた。
「……うそ」
声が小さく揺れる。
楽しかった?
今のが?
殺すことが?
違う。違うはずだ。敵を倒しただけ。任務を終えただけ。役に立っただけ。そういう話だ。そういう話であってほしい。
でも、指先はまだ、自分の口元に残っている。
上がっていた形を、ちゃんと覚えている。
詩乃はゆっくり手を下ろした。
笑ってない。
今は、もう。
でも、さっきは。
そのとき、背後から声がした。
「詩乃」
びくっとするほどではない。けど、心臓がひとつだけ変な打ち方をした。
振り返る。
路地の入口に夕璃が立っていた。街灯の届かない半端な影の中で、いつもの眠そうな目をこっちへ向けている。手には長刀。抜いたまま。たぶん、こっちの戦闘が終わるのを見ていたんだろう。
「終わったなら戻るぞ」
声はいつも通りだった。
低くて、ちょっとだるそうで、でも完全には気を抜いていない声。
詩乃はそこで、ようやく自分の顔を作り直せた気がした。
ふわっと笑う。
いつものやつ。
「うん、今行く」
夕璃はそれ以上何も言わない。
詩乃の方へ歩いてくるだけだ。無理に中身を見ようともしないし、見て見ぬふりをするでもない。その距離感が、夕璃らしい。
「残りは?」
詩乃が聞く。
「そっちは終わってる。琥珀が一体追いかけ回して、紅羽に怒られてた」
ちょっとだけ、詩乃は笑いそうになる。
「いつものだね」
「いつものだな」
夕璃が短く返した。
そのやり取りの間にも、胸の奥の変な熱はまだ残っている。
静かに。
嫌な感じで。
夕璃が崩れた自販機の横を通って、残滓の消え跡を一瞥する。
「今日、妙に静かだったな」
「そうだね」
「逆にやだ」
「わかる」
会話は軽い。
軽いけど、どこかに薄い不穏が残っている。たぶん夕璃も感じてる。詩乃も感じてる。けど、まだ言葉にするほどじゃない。そういう夜だった。
二人で路地を戻る。
風が吹く。遠くで、金網が揺れる音。封鎖区画の夜の匂い。乾いたコンクリと、古い雨と、少しだけ錆の匂い。
出口が見えてくる。
そこへ向かう途中で、詩乃はもう一度だけ、自分の口元を意識した。
今は普通だ。
笑っていない。
いつもの顔だ。
なのに、その“笑う前の顔”が、頭のどこかに残って離れない。
そのとき。
ほんのすぐ耳のそばで、誰かが笑った気がした。
女の声。
やわらかいのに、妙に冷たい。
「その顔の方が、向いてるのに」
詩乃の足が止まる。
夕璃が半歩先で振り返る。
「……詩乃?」
詩乃は周囲を見る。
右。左。屋上。路地の奥。誰もいない。気配もない。風の音しかない。
「どうした」
夕璃の声が少しだけ低くなる。
詩乃は数秒だけ黙って、それから笑った。
今度はちゃんと、作った笑い方で。
「ううん」
首を振る。
「なんでもない」
夕璃は少しだけ目を細めた。
たぶん、信じていない。
でもそれ以上は聞かない。
「ならいい。戻るぞ」
「うん」
詩乃はそう返して、歩き出した。
なんでもない。
なんでもないはずだ。
ただの聞き間違い。戦場のあとに耳が拾う、変な残響。そういうのは珍しくない。珍しくない……はず。
それなのに、さっきの声は、妙にはっきり残っていた。
その顔の方が、向いてるのに。
やめてよ、と思う。
誰に向かってかもわからないまま、詩乃は心の中でだけそうつぶやいた。
夜の封鎖区画は静かだった。
でも、その静けさの奥で、何かがこちらを見ていた。
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