エピローグ 「夜明けはまだ遠くにある」
旧第十三市街に入った瞬間、音が変わった。
外壁の近くにいたときまでは、まだ後ろの世界の音があった。警報とか、連絡とか、誰かの足音とか。そういう生きてる側の音。
でも一歩、二歩と奥へ入るたびに、それが薄れていく。
代わりに増えるのは、風の音だけだった。
崩れたビルの隙間を抜ける風。割れた看板を鳴らす風。ひび割れた窓の向こうで、どこにも行けずに回る風。
静かだ。
変なくらい。
「やだな、ここ」
琥珀がぼそっと言った。
元気を出そうとしてる声じゃなかった。ただの本音だ。
「同感」
夕璃が短く返す。
第六部隊が少し前を歩く。澪那を先頭に、透子、繭、遥。全員、無駄がない。歩幅まで揃って見えるのが、逆にちょっと気持ち悪い。
こっちはこっちで、紅羽が一歩前、詩乃が半歩外、琥珀がそわそわして、実乃里が紫月の代わりに補助端末を確認しながらついてきている。
まとまり方が違うなと、改めて思う。
街路の途中で、澪那が手を上げた。
全員が止まる。
「反応」
小さい声。
でも、十分だった。
透子が携帯端末をのぞき込む。
「前方百メートル、地下入口寄り。二つ、いや三つ……一つは浅い」
「兵骸種?」
紅羽が聞く。
「多分。でも混ざってる」
澪那はそう言って、視線を前方の地下商業区画入口へ向けた。
階段が半分崩れている。シャッターも下りきらずに歪んでいて、その奥は暗い。
地下。
嫌な単語だった。
夕璃は息を吐く。
この街の嫌さって、たぶん地上より地下にある。なんとなくだけど、そういう気がする。
「第六が先に見る」
澪那が言う。
「第七はここで待機」
「素直に待つと思う?」
夕璃が言う。
透子が小さく吹きそうになった。
澪那は真顔のままだ。
「思わない。だから、待たなくていい状況になるまで十秒で戻る」
「雑」
「黒瀬さんに言われたくない」
それはそうかもしれない。
澪那たち第六部隊が音もなく前へ出る。
ほんとに音がしない。
見てるだけでわかる。あの部隊は、戦うというより“触れないまま近づく”ことに慣れすぎてる。うまいとか強いとかより、慣れてるが近い。
「第六って、ほんとやだね」
琥珀が小声で言う。
「わかる」
詩乃が珍しく即答した。
「なんか、自分の嫌な未来見てる感じする」
その言い方に、夕璃は少しだけ横目で詩乃を見た。
詩乃は前を見たまま、軽く肩をすくめる。
「冗談だよ」
「半分くらいは?」
夕璃が聞く。
詩乃は笑わなかった。
「……どうだろ」
その返しはやめてほしい。
十秒も経たないうちに、地下入口のあたりで短い金属音がした。
高い。刃の当たる音。
次の瞬間、第六部隊が戻ってくる。
「三。兵骸種二、あと一つは違う」
澪那が言う。
「違うって」
紅羽が聞く。
「人型。だけど、兵骸種より近い。こっち見てる」
その言い方の時点で嫌だった。
そして、嫌な予感はだいたい当たる。
地下入口の暗がりから、ゆっくり何かが出てきた。
女だった。
……いや、女の形をしているだけだ。
長い髪みたいな黒い糸が肩から垂れていて、ワンピースみたいな布が裂けたまま身体に張り付いている。顔のある場所は、のっぺりとしていて、目も口もない。
なのに、見ているとわかる。
こっちを見ている。
「なにあれ」
琥珀の声が少しだけ震えた。
兵骸種二体がその後ろに続く。
でも、あの真ん中のやつが明らかに違う。静かすぎる。人の形をしている分だけ、兵骸種より気持ち悪い。
「新種か」
紅羽が低く言う。
「いや……」
夕璃は、無意識に一歩前へ出ていた。
頭の奥がざわつく。
この感じ、嫌だ。祭祀種とも違う。もっと近い。夢に近い。
そして、その人型の何かが、ゆっくり首をこちらへ向けた。
ほんとは首なんてないはずなのに、そう見えた。
次の瞬間、耳の奥で、女の声がした。
今度ははっきり。
あの影の声じゃない。
もっと若い、知らない声。
「……おそい」
「っ!」
夕璃の肩が跳ねる。
「隊長?」
実乃里が驚いた声を出した。
まずい。
また反応してる。
「黒瀬、下がれ」
紅羽が言う。
「無理」
気づいたらそう返していた。
無理だ。下がれない。あれを見たまま、何もしないでいるのは無理だった。
「おい」
「悪い、今のは聞けない」
夕璃は長刀を出した。
接続端子が淡く光る。刃が形になる。手の中に落ちる重みが、逆に頭を少しだけ冷やす。
「詩乃、右。紅羽、前衛二体止めて」
「了解」
「了解」
「琥珀はまだ出るな!」
「えっ」
「まだ!」
「う、うん!」
ちゃんと止まった。えらい。
第六部隊が半歩引いて、第七の動きに譲る。そこだけは連携が早い。気に入らないけど助かる。
人型の何かが、足を動かした。
歩く、というより、滑るみたいに前へ来る。
そのたびに足元へ黒い筋が伸びる。地面のひびと混ざって、どこまでが影でどこからが本体かわからない。
兵骸種二体が左右へ散る。
紅羽が正面へ出る。
「そっちは私が押さえる!」
槍が一閃。
右の兵骸種を止める。左は第六の繭が足を刈った。そこへ透子の符短杖が刺さる。
夕璃は真ん中の人型へ踏み込む。
近づくほど、声がうるさい。
おそい。おそい。おそい。
同じ言葉だけが、頭の奥で何重にも響く。
「うるさい……!」
夕璃は吐き捨てるみたいに言って、刃を振るった。
浅い。
切れた。切れたのに、手応えが薄い。
人型の胴に裂け目が入る。でも、その中は空っぽだった。肉も骨もない。ただ暗いだけ。
「空洞?」
詩乃が小さく言う。
「核は別!」
「どこ!」
「探してる!」
人型の腕が伸びる。
腕……というか、黒い糸の束。夕璃の首を狙う。身をひねって避ける。糸が壁に刺さる。コンクリがじわっと黒ずんだ。
「うわ、触りたくないやつ」
琥珀が後ろで言った。
同感だ。
夕璃は一度距離を切る。
だめだ。形だけ切っても意味がない。核がある。どこかに。
「詩乃!」
「頭じゃない。胸も違う」
「お腹とか」
「ない」
だろうな。
人型がまた滑るように近づく。
そしてその瞬間、夕璃の視界の端に、またあの女の影が立った。
今度ははっきり近い。
人型の真後ろ。
影は、人型の左肩を指した。
そこだけ、黒い筋の流れが微妙に集まっている。
「……そこか」
夕璃がつぶやく。
「何が」
紅羽が聞く。
「左肩」
「また勘?」
「今回も当たる」
言い切って、夕璃は踏み込んだ。
人型が反応する。
こっちへ向かって、声ともノイズともつかない音を吐く。
おそい。
また、それ。
「だから、うるさいって!」
夕璃は左から振るう。
人型が避ける。避けた先へ詩乃の鋼糸。ほんの一瞬だけ足が止まる。
そこへ夕璃の二撃目。
左肩を斬る。
今度は手応えがあった。
硬い。何かある。
「紅羽!」
「行く!」
紅羽が兵骸種を振り払い、横から槍を突き込む。夕璃の斬った左肩の裂け目へ、まっすぐ。
刺さる。
裂け目の奥で、紫色の小さな光が弾けた。
核。
そこか。
「琥珀、今!」
「待ってました!」
止めてた勢いを全部解放するみたいに、琥珀が飛ぶ。
籠手を振りかぶって、その裂け目へ叩き込んだ。
衝撃。
裂け目が大きく砕ける。
紫色の核みたいなものが、肩口から半分だけ飛び出した。
「見えた!」
詩乃の声。
十分だ。
夕璃は接続を深く落とす。長刀の温度が変わる。刃が少しだけ冷たくなる。
夢の残りが、また背中を這う。
でも今は使う。
「借りる」
低く言って、夕璃は核へ斬り込んだ。
一撃。
足りない。
残響を重ねる。
二撃目が遅れて走り、核を横から裂く。
ぱき、と乾いた音がして、紫色の光が消える。
人型の身体が、その場で糸みたいにほどけた。
崩れる、というより、最初からそこにいなかったものが形を保てなくなったみたいな消え方だった。
同時に、頭の奥で響いていた声も止まる。
静かだ。
「……終わり?」
琥珀が聞く。
「終わりだろ」
夕璃が息を吐く。
その途端、膝が少しだけ笑った。
危ない。さっきより反動が重い。
詩乃が横に来る。
「夕璃ちゃん、顔やばい」
「最近そればっか言われるな」
「だってほんとだし」
返す言葉がない。
澪那が近づいて、ほどけた黒い残骸の一部を見下ろした。
「……人形型の残滓か」
「なにそれ」
琥珀が聞く。
「人の未練を形だけ写したようなやつ。たまに出る」
透子が答えた。
「でも、こんな濃いのは珍しいね」
その言い方も嫌だ。
珍しい、で済ませてほしくない類の嫌さがある。
実乃里が端末で周囲反応を確認する。
「この区画、反応だいぶ静かになりました」
「元がこれだったなら、たぶんそうだろうね」
澪那が言う。
そのとき、紅羽が夕璃を見る。
「黒瀬」
「なに」
「また、見たのか」
短い問いだった。
夕璃は数秒だけ黙って、それからうなずく。
「影」
「位置を教えた?」
「たぶん」
詩乃が小さく息を吐く。
「やっぱりそうなんだ」
詩乃には見えていない。でも、もう隠しきれない。
澪那が静かに言った。
「その話、後で詳しく聞く」
「やだなあ」
「聞くよ」
有無を言わせない感じがほんと苦手だ。
でも今はそれより先に、街の奥から別の反応が上がってきていた。
透子が顔をしかめる。
「……深部、動いた」
その一言で空気が固まる。
モニター端末の地図に、新しい反応点が出る。今の場所よりさらに奥。地下商業区画の中心寄り。
赤い点が一つじゃない。三つ、四つ、もっと。
「これ、呼んだ?」
琥珀の声が少しだけひっくり返る。
「違う」
夕璃が即答した。
でも、そう言い切りながら、内心では少しだけ嫌な感じがした。
今の人形型残滓を落としたことで、街のもっと深いところが起きた。そう見えるタイミングだった。
澪那が短く命令する。
「一度下がる」
「深追い禁止、だもんね」
詩乃が言う。
「珍しく守るんだ」
夕璃が返す。
「守るよ。第六がいるから」
透子が笑う。
「ひどい」
「事実確認です」
実乃里が青い顔で言う。
「この反応、昨日の祭祀種核片より濃いです」
その言葉で、夕璃の背中がまた冷えた。
昨日より濃い。
つまり、こっちは本体側だ。
澪那がすぐに通信を開く。
『こちら第六。旧第十三市街地下入口手前で新規上位反応を確認。濃度高。先行調査を中断して一度撤退する』
霧島の返答は早かった。
『了解。戻れ。総力戦の準備に切り替える』
その一言で、流れが決まる。
旧第十三市街は、今日の先行調査だけでは終わらない。
もっと大きく動く。
そしてたぶん、第七部隊はその中心に置かれる。
嫌な予感しかしない。
撤退の動きは早かった。
第六が前、第四補助の実乃里が中央、第七がその後ろ。来た道を逆に戻る。
旧第十三市街は入るときより静かだった。
いや、ほんとは違う。奥で何かが起きている気配があるせいで、手前の静けさだけが余計に際立っている。
壊れたビル。止まった信号。割れた道路。
そして夕璃は、その道の途中で、一度だけ振り返った。
街の奥、地下商業区画の暗がり。
そこに、あの女の影が立っていた。
今度は、こっちを見ているのがわかった。
そして影は、ゆっくりと、まるで当然みたいに旧第十三市街のさらに奥を指した。
行け、と。
そう言われた気がした。
「……ふざけんな」
夕璃は小さく吐き捨てた。
「何が?」
琥珀が聞く。
「独り言」
「独り言こわ」
でもその一言で、少しだけ頭が冷えた。
あれが何者でもいい。
勝手に呼ぶな。
行くかどうかは、こっちが決める。
その気持ちだけは、今はっきりした。
外縁ゲートが見えてくる。
生きてる側の空気が戻ってくる。青虹隊の観測光。黄虹隊の連絡音。補給班の足音。現実の音。
そこでようやく、夕璃は少しだけ肩の力を抜いた。
でも、完全には抜けなかった。
ここから先、旧第十三市街へ本格的に入る。
そのとき何が起きるか、たぶん誰もまだわかっていない。
わかっていないのに、もう引き返せない感じだけは、街を出たあともずっと残っていた。
そして夕璃は、外縁ゲートをくぐる直前にもう一度だけ後ろを見た。
そこに影は、もういなかった。
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