「まともなやつが眠れない」
「黒瀬!」
紅羽の声が、すぐ近くで落ちた。
夕璃はそこでようやく、自分がその場に立ち止まっていたことに気づいた。ほんの一瞬……だったと思う。でも、体感ではもっと長く止まっていた気がする。
息が浅い。
耳の奥がまだ変だ。
「隊長、顔やばい」
琥珀が紫月を支えたまま言う。
「やばくない」
「やばい人ってだいたいそう言うよね」
詩乃が静かに足した。
やめてくれ。
正論が多いんだよ、この部隊。
紅羽が夕璃の前に立つ。
「何があった」
「……ちょっと立ちくらみ」
「嘘だな」
「即断」
「顔見ればわかる」
それを言われると、返しづらい。
でも今ここで「誰もいないのに声が聞こえた」なんて言ったら、余計ややこしい。いや、もう十分ややこしいんだけど。
夕璃はこめかみを指で押さえた。
「大丈夫。歩ける」
「歩けるかどうかじゃない」
紅羽の声が少しだけ強い。
「今のお前、まともじゃなかった」
「紅羽先輩、言い方」
琥珀が言う。わりと珍しく、少しだけ夕璃側に立つ感じの声だった。
「でも、そう見えたのはほんと」
紫月が小さく続けた。
その声は細い。細いけど、ちゃんと届く。
「夕璃ちゃん、今、何か聞いた?」
夕璃は目を上げた。
紫月がこっちを見ている。顔色はかなり悪いのに、目だけは変にまっすぐだった。
隠しきれないな、と思う。
この人には特に。
「……声がした」
短く言う。
「誰の」
「知らない」
詩乃の表情が少しだけ変わった。
紅羽は黙る。琥珀は意味がまだ追いついていない顔で、でもただごとじゃないのはわかっているらしい。
紫月が小さく息を吐く。
「戻ろう」
「まだ着いてない」
「だからだよ」
その言い方はやわらかいのに、珍しく押しが強かった。
「今のまま歩かせるの、あんまりよくない」
紅羽がうなずく。
「同意する」
「え、ちょ、そんな深刻に……」
「するよ」
詩乃が言った。
「夕璃ちゃん、今ちょっと危ない」
その言い方は軽くなかった。
冗談じゃない。本当にそう見えている時の声だ。
夕璃は舌打ちしたくなった。
自分に。
今さら立ち止まるなよ、と。
でも体は正直で、まだ少しだけ地面が遠い。
そのとき、回収ポイントの方から数人の足音が近づいてきた。医療班。綾瀬冬子もいる。
やっぱり来るよな。
こっちの状態は、たぶん全部モニタされていた。
「皇さんはすぐ白暁院。黒瀬さんも一緒」
綾瀬は近づくなりそう言った。
問いじゃない。決定だった。
「私は平気です」
夕璃が言うと、綾瀬は一ミリも揺れずに返した。
「平気な人は、歩きながら急に止まって声の出所を探すような顔をしないの」
見られてた。
最悪だ。
琥珀が小さく「うわ」とつぶやく。紅羽はもう言い返す気もない顔で、詩乃は少しだけ笑っていない。
紫月だけが、夕璃を見る。
責めるでもない、ただ「ね」と言うみたいな目だ。
夕璃は観念して息を吐いた。
「……はい」
そう返した瞬間、膝の力が少しだけ抜けた。
ほんとに余裕なかったんだな、とそこで思うのはだいぶ遅い。
綾瀬の指示で、第七部隊は一度完全に後送された。
正確には、紫月と夕璃が医療班付きで白暁院へ。紅羽、詩乃、琥珀は武装解除後に待機命令。外縁の戦闘は第一、第三、第四、第五で引き継ぐ。
正式稼働日の初日としては、かなり濃い。
濃すぎるくらいだ。
白暁院の処置室は静かだった。
戦場帰りのざらついた空気が、ここへ入ると急に浮く。白い壁、消毒の匂い、整ったベッド。清潔すぎて、逆にちょっと息苦しい。
紫月は隣のベッドで検査を受けている。疲労、領域過負荷、神経摩耗。だいたいそんなところだろう。
夕璃は別室の簡易観測ベッドに座らされて、手首とこめかみに端子をつけられていた。
「じっとして」
綾瀬が言う。
「逃げませんよ」
「そういう意味じゃない」
観測端末の画面に、波形がいくつも並ぶ。正直、見てもよくわからない。でも、その中の一つがあんまりきれいじゃないことだけはなんとなくわかった。
綾瀬は淡々とデータを見ている。
「祭祀種の接触時、波形乱れ。D区画でも再度乱れ。短時間だけど、同じ系統の反応が出てる」
「同じ系統って」
「外部由来の侵入に近い反応」
さらっと怖いことを言う。
「それ、かなりやばくないですか」
「だからここにいるの」
そりゃそうだ。
綾瀬は端末を切り替える。
「黒瀬さん。何を聞いた?」
夕璃は少しだけ黙った。
「女の人の声」
「内容は」
「D区画の帰り道で、“また遅い”って」
「他には」
「その前に、祭祀種の時は……“今度は落とすな”に近いの」
「近い、って?」
「言い回しが、ちょっと違う気がする。でも似てた」
綾瀬はメモを取る。その動きが妙に落ち着いていて、逆にこっちの不安を煽る。
「顔は見えた?」
「見えてない。影だけ。輪郭がぼやけた感じの」
「それを声の主だと思った理由は?」
「……なんとなく」
「黒瀬さん」
「いや、ほんとにそうなんですって。見た瞬間、ああこの人だってわかったっていうか……」
説明が下手だな、と自分でも思う。
でも、それ以上の言い方がない。
綾瀬は少しだけ考えてから、端末を閉じた。
「今すぐ隔離が必要な数値ではない」
その一言で、夕璃は少しだけ息をついた。
「ただし」
続くと思った。
「これは単なる悪夢の延長ではない可能性が高い」
息をついた分だけ、また重くなる。
「じゃあ何ですか」
「まだ断定はしない」
「便利な言い方」
「医療は断定を急がないの」
綾瀬はそう言ってから、声を少しだけ落とした。
「ただ、外部の記憶残滓か、あるいはあなたの中にすでにある何かが、特定の刺激で表へ出ている。どちらか、もしくはその両方」
夕璃は黙る。
言葉の意味はわかる。
わかるけど、あんまり嬉しくない。
「今日のところは安定剤を入れて休ませる。出撃停止まではかけない」
「止めてくださいよ」
「嫌味にしては弱い」
「わりと本気です」
綾瀬は少しだけため息をついた。
「あなたはね、もっと止められることを怖がると思ってた」
「怖いですよ」
「そうは見えない」
「顔に出ないだけ」
夕璃がそう言うと、綾瀬は一瞬だけ表情をやわらげた。
「それもまあ、本気なんでしょうね」
処置が終わるころには、外はだいぶ暗くなっていた。
正式稼働日の一日が、ようやく終わろうとしている。
終わろうとしてるだけで、終わった感じは全然しないけど。
紫月は先に休養室へ移された。睡眠誘導を入れたらしい。起きていたらまた無理して起き上がるから、たぶんそれで正解だ。
夕璃も部屋へ戻れと言われたけど、素直に従う気にはなれなかった。
頭はまだ少し重い。でも、寝たらまた夢を見る気がする。
それが嫌だった。
白暁院を出て、外気に触れる。
夜の学園は静かだ。戦時下の学園の静けさって、安心じゃなくて、ただ疲れているだけの静けさだと思う。
紫棟へ戻る前に、夕璃は足を止めた。
そのまま、なんとなく屋上の方へ向かう。
風がほしかった。
屋上には先客がいた。
一条紅羽。
外壁の向こうを見ている。夜風に髪が揺れていた。
夕璃が扉を開けた音で、紅羽が振り返る。
「起きていたのか」
「そっちこそ」
「眠れないだけだ」
「まとも」
「どういう意味だ」
「まともなやつから眠れない日ってあるだろ」
紅羽は少しだけ眉を寄せたあと、鼻で息を吐いた。
「お前、その言い方はわりと失礼だぞ」
「知ってる」
夕璃は屋上の手すりまで歩いて、紅羽の少し横に立つ。
夜の外壁の向こうには、まだかすかな赤が残っていた。火か、警報灯か、その両方か。遠くでたまに光る砲撃の名残も見える。
「紫月は?」
紅羽が聞いた。
「寝かされた」
「だろうな」
「だろうね」
短い会話。
でも、今はそれくらいでいい。
しばらく黙って風に当たる。
紅羽が先に口を開いた。
「今日は助かった」
「どこが」
「南交差点」
「ああ」
「お前がいなければ、大型への到達が遅れた」
「そっちこそ。正面押してくれなきゃ無理だった」
「それでもだ」
紅羽は前を見たまま言う。
「……ありがとう」
珍しい。
素直に来たな、と思う。
夕璃は少しだけ肩をすくめた。
「どういたしまして」
「軽い」
「そういう空気にしたのお前だろ」
「それはそうだが」
紅羽はそこで口を閉じた。
風が吹く。
冷たい。
「黒瀬」
「なに」
「お前、あの帰り道で止まったとき、何を見た」
やっぱり聞くか。
聞くよな。
夕璃はすぐには答えなかった。
言うか、言わないか、少し迷った。でも、紅羽にはたぶん、雑な嘘をついても意味がない。
「女の人」
短く言う。
「影だけの。顔は見えない」
紅羽の横顔が少しだけ硬くなる。
「それが、夢に出たやつか」
「たぶん」
「たぶん、か」
「はっきりはしない」
夕璃は手すりへ肘を乗せた。
「でも、二回助けられた」
「助けられた?」
「祭祀種のとき、D区画でも。接続点の位置、そいつが指してた」
言ってしまうと、自分でもだいぶ変な話だなと思う。
案の定、紅羽はすぐには返さなかった。
でも、否定もしなかった。
「綾瀬医療監には」
「言った」
「そうか」
「何その反応」
「いや」
紅羽は少しだけ迷うみたいに視線を伏せる。
「言ってくれてよかったと思っただけだ」
それは、ちょっとだけ意外だった。
「止めると思った」
「止めたい気持ちはある」
紅羽はきっぱり言った。
「だが、隠される方が困る」
その言い方が、紅羽らしかった。
正しい。まっすぐ。面倒くさいくらいに。
「お前、ほんとそういうとこだよな」
「何だ」
「ちゃんとしてる」
「褒めてるのか」
「半分くらいは」
「お前までそれを言うのか」
少しだけ、紅羽が笑った。
ほんの少しだけだったけど、ちゃんと笑った。
それで、夕璃の肩の力も少しだけ抜ける。
「……明日、どうなると思う」
夕璃が聞く。
「正式稼働日の翌日なんて、ろくでもないだろ」
「雑だな」
「でも合ってる」
「否定はしない」
紅羽はまた前を向く。
「第七への見方は、今日で少し変わるかもしれん」
「悪い方に?」
「両方だ」
それはたぶん、ほんとうだ。
使える、でも危ない。助かる、でも不安。そういう見方が濃くなる。
「千晴隊長は、最後に第七へD区画を回した」
紅羽が言う。
「最初なら、あの人はそうしなかったと思う」
「信頼されたってこと?」
「少なくとも、任せてもいいとは思われた」
それはちょっとだけ、うれしい。
今日一日の中で、かなり疲れる形で得たものだけど。
「でも、お前の件は別だ」
紅羽が言う。
「そこはごまかせない」
「わかってる」
「わかってない顔をするな」
「してない」
「してる」
「詩乃かよ」
「お前が悪い」
そこまで言って、紅羽は少しだけ声を落とした。
「黒瀬」
「なに」
「お前、無理に強く見せなくていい」
その言葉は、不意打ちだった。
夕璃はすぐに返事ができなかった。
「今日のお前、たぶん何度か危なかった」
紅羽はまっすぐ言う。
「でも、言わなかった。いや、言えなかったのかもしれんが」
風が強くなる。
夜の冷たさが頬を刺す。
「隊長だからって、全部一人で判断する必要はない」
紅羽が続ける。
「少なくとも、私は隣にいる」
その一言は、たぶん今日いちばん効いた。
朱里の言葉でも、千晴の正論でも、霧島の「戻ってこい」でもなく、今ここで紅羽に言われたそれが、妙に深く落ちる。
夕璃は視線を上げた。
夜の空は暗い。天孔は見えない。裂け目も、今日は雲の向こうだ。
「……そっちこそ」
「何だ」
「一人で背負いすぎるなよ」
「私は」
「副隊長だから、はなしな」
先に切る。
紅羽が少しだけ黙る。
「今日、朱里先輩に言われてただろ。理想通りの駒じゃないって」
「……聞いていたのか」
「見えてた」
「そうか」
「第七でちゃんとしてる役、たぶんお前しかいないけど」
「褒めてるのか、それは」
「でも、それで潰れたら意味ない」
紅羽はしばらく何も言わなかった。
それから、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「努力する」
「えらい」
「子ども扱いするな」
「してない」
「してる」
「してない」
言い合いのテンポが少しだけ軽くなる。
それがちょっとだけ救いだった。
そのとき、屋上の扉がまた開いた。
「いた」
詩乃だった。
相変わらず足音が薄い。
「やっぱりここ」
「なんでわかった」
夕璃が聞く。
「夕璃ちゃんも紅羽先輩も、眠れないときだいたい高いとこ行くから」
「そんな習性みたいに言うな」
「合ってるし」
詩乃はそう言って、少し離れた場所まで歩いてきた。
「琥珀ちゃん、先に寝たよ」
「意外と早い」
紅羽が言う。
「泣きそうになりながら寝た」
「……は?」
夕璃が思わず聞き返す。
詩乃は静かにうなずく。
「紫月先輩が運ばれるとき、ちょっと顔が怖かったから」
その言葉で、夕璃と紅羽の間に小さな沈黙が落ちた。
琥珀は明るい。元気。うるさい。勢いで突っ込む。
でも、その奥のところまでいつも強いわけじゃない。
今日はたぶん、自分が紫月を無理させた場面も、夕璃が止まった瞬間も、いろいろ抱えたまま眠ったんだろう。
「……明日、ちゃんと見てやらないとだな」
紅羽が低く言う。
「うん」
夕璃も短く返した。
詩乃が手すりにもたれた。
「わたしも、ちょっとだけ怖かった」
その一言は、たぶん今夜の中でいちばん意外だった。
夕璃がそっちを見る。
詩乃は空を見たまま続ける。
「夕璃ちゃんが止まったとき」
風が髪を揺らす。
「なんか、呼ばれてるみたいだったから」
その言い方に、夕璃の背中が少しだけ冷えた。
「見えてたのか」
「見えてはない」
詩乃は首を振る。
「でも、そういう感じがした」
そこまで言って、詩乃は小さく笑った。
「やだね。勘がいいの、こういうときは」
夕璃は返事をしなかった。
できなかった。
代わりに、もう一度だけ夜空を見る。
暗い。
静かだ。
でも、完全な静けさじゃない。
どこかでまだ、戦場の続きが鳴っている。
明日もたぶん、ろくでもない。
それでも、今は隣に人がいる。
紅羽がいて、詩乃がいて、下には寝てる琥珀がいて、白暁院には紫月がいる。
それだけは、ちゃんと自分のものだと思えた。
そしてその夜、夕璃は自室へ戻ったあと、ベッドに入ってもすぐには眠れなかった。
耳の奥に、もう声はない。
でも、言葉だけが残っている。
また遅い。
その意味を考えないようにしても、頭のどこかがずっと引っかかっていた。
気づけば窓の外が少しだけ白み始めていて、夕璃はようやく目を閉じた。
そのときにはもう、ほとんど朝だった。
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