「死んだ街は静かだ」
D区画へ向かう途中、ようやく少しだけ静けさが戻った。
戻った、というより、戦場の音に耳が慣れただけかもしれない。
遠くの警報。砲撃音。無線のざらつき。どこかで誰かが叫ぶ声。そういうのが全部、背景に沈んでいく。慣れたくないけど、たぶん適合者ってそういうふうにできていく。
夕璃は前を走りながら、一度だけ後ろを見た。
紅羽、詩乃、紫月、琥珀。
全員いる。
それだけで、少しだけ息がしやすい。
D区画は、南交差点より住宅寄りだった。低い集合住宅と個人商店が混ざっていて、道が細い。避難経路としてはあまりよくない。だから遅れが出る。
「こっち、音少なくない?」
琥珀が小声で言う。
たしかにそうだった。
さっきの交差点は、まだ戦ってる音が近かった。でもこっちは変に静かだ。静かすぎる。人がいる区画の音じゃない。
「嫌だな」
夕璃が言う。
「そういうの、だいたいよくない」
「わかる」
紅羽が短く返す。
紫月は少しだけ目を閉じて、空気を確かめるみたいに息を吸った。
「……誰かいる」
「住民?」
詩乃が聞く。
「たぶん。二人、いや三人くらい」
紫月の感覚はこういうとき強い。
でも、その声は少しだけ迷っていた。
「ただ、変」
「変って?」
琥珀が聞く。
紫月はすぐには答えなかった。
「怖がってる感じが薄い……というか、音が止まってるみたい」
嫌な言い方だった。
音が止まってる。
生きてる人間に向ける言葉じゃない。
「詩乃」
「うん」
「先見て」
「了解」
詩乃が消える。
ほんとに自然に消えるよな、と毎回思う。横にいたはずなのに、次の瞬間にはいない。敵なら最悪だし、味方でもたまに怖い。
「琥珀、紫月の近く」
「はいはい」
「返事軽い」
「でも守るよ」
そう言って、琥珀は紫月の半歩前に出た。
その位置取りがもう少し早く自然にできるようになるといいな、と思う。でも今日はかなりましだ。最初に飛び出すだけじゃなく、ちゃんと守る側にも回ってる。
前方、商店街の入り口に着く。
シャッターが半分閉まっている店、看板が曲がったドラッグストア、古いクリーニング屋。生活の途中、という景色だ。
その真ん中に、人がいた。
中年の男の人。
立っている。道路の真ん中に。
動かない。
「おじさん!」
琥珀が呼びかける。
男の人は顔を上げない。
腕はだらんと下がったまま。逃げるでもない。怯えるでもない。ほんとに、ただ立っているだけだ。
「……おかしい」
夕璃が足を止めた。
紅羽も同時に止まる。
「上、見ろ」
低い声だった。
夕璃の目線が上がる。
二階のベランダ。
三階の廊下。
窓の隙間。
そこにも人がいた。
女の人。子ども。老人。みんな立っている。じっと。下を見ている。でも、表情がない。いや、見えないだけじゃない。空っぽみたいな立ち方だった。
ぞわっと背中が粟立つ。
「なにこれ……」
琥珀の声がかすれる。
紫月が小さく息をのんだ。
「意識が薄い……」
その言い方で、夕璃はさっきの祭祀種を思い出した。
音。
鐘の音。
もう止めたはずだろ。
なのに、今この区画の空気には、まだ何かが残っている。
そのとき、詩乃の声が通信に落ちた。
『上、見ない方がいいかも』
「遅い」
夕璃が返す。
『ごめん。先に嫌なの見つけた』
「どこ」
『商店街の奥。広場になってるとこ。たぶん、残り香っていうより本体の欠片』
残り香。
本体の欠片。
その時点で、ろくでもないのは確定だった。
「第七」
夕璃は低く言う。
「住民に触るな。下手に起こすと何が起きるかわからない」
「じゃあどうすんの」
琥珀が聞く。
「元凶を潰す」
「シンプルだな」
「今はそれでいい」
紅羽がうなずいた。
「同意する。紫月、住民への影響は」
「広く浅く。たぶん、一人ずつは無理。源を止めれば戻るかも」
「戻らなかったら?」
詩乃の声がどこからか混じる。
夕璃は一瞬だけ黙った。
「そのとき考える」
返しとしては最低だ。でも、今はそれしか言えなかった。
商店街の奥へ進む。
途中で、男の人の横を通る。近い。呼吸はある。目も開いてる。なのに中に誰もいないみたいな顔をしている。
嫌だ。
さっきの祭祀種より、こっちの方が嫌かもしれない。
夕璃は視線を切って先へ行く。
広場は、小さなロータリーみたいな形だった。真ん中に時計台がある。たぶんこのあたりの待ち合わせ場所だったんだろう。ベンチがあって、花壇があって、休日なら子どもが走ってそうな広さ。
その真ん中に、それはいた。
鐘。
いや、鐘の残骸みたいなもの。
倒れたまま地面に半分埋まっていて、その表面に黒い筋みたいなものが這っている。鐘そのものは古びた銅みたいなのに、その周りだけが生き物みたいに脈打っていた。
音はしない。
でも、見ているだけで耳の奥がざわつく。
「あれだね」
詩乃がいつの間にか戻ってきて、夕璃の斜め後ろに立つ。
「祭祀種の核片……かな」
「かな、で済ませてほしくないな」
「でも初めて見るし」
それはそうかもしれない。
紅羽が槍を構える。
「壊せば終わるか」
「待って」
紫月が止めた。
顔色は悪いまま。でも目だけは冴えている。
「これ、周りの人と繋がってる」
全員がそっちを見る。
紫月は鐘の残骸を見たまま言う。
「たぶん、浅いけど精神を引っかけてる。雑に壊したら、住民の方に反動が行くかも」
厄介にもほどがある。
夕璃は舌打ちしたくなった。
「じゃあどうする」
「一気に切る。繋がりごと」
紫月の声は静かだった。
「できる?」
「……やるしかない」
その答えに、少しだけ嫌な感じがした。
紫月は優しい。優しすぎる。だから、やるしかないって言うときはだいたい、自分がいちばん無茶するつもりのときだ。
「却下」
夕璃が言う。
紫月がこっちを見る。
「夕璃ちゃん」
「だめ。さっきでもう削れてる」
「でも他に方法が」
「ある」
言い切ったものの、頭の中はまだ組み上がっていなかった。
だから、無理やり考える。
繋がりを切る。住民を巻き込まない。核片を潰す。紫月の負担を減らす。
そこで、ふと視界の端にまた何かが揺れた。
時計台の影。
女の人。
まただ。
夢の中の輪郭に似た、ぼやけた人影。
でも今度は、消えなかった。
影は、鐘の残骸の方を指さしていた。
「……え」
夕璃の呼吸が止まる。
「隊長?」
琥珀の声。
影は何も言わない。
ただ、鐘の側面の、一か所を指している。
そこだけ黒い筋の流れが違う。脈が集まっている。
接続点。
そう見えた。
「夕璃ちゃん、どうしたの」
紫月が聞く。
言うべきか迷う。
言ったところで、たぶんまともに聞こえない。自分でも、今のが見間違いじゃないって言い切れない。
でも、時間がない。
「……側面の左下」
夕璃は鐘を指した。
「そこ、繋ぎ目っぽい」
「え?」
紅羽が眉を寄せる。
「何を根拠に」
「勘」
「雑すぎる」
「わかってる。でもたぶん当たり」
詩乃が鐘を見る。
「……たしかに」
数秒後、そう言った。
「筋の流れ、そこだけ逆向いてる」
助かった。
詩乃が乗ってくれるなら、ただの妄言じゃなくなる。
「じゃあ、そこを切れば」
琥珀が身を乗り出す。
「待て」
紅羽が止める。
「切るだけじゃだめだ。反動が住民に走る可能性は残る」
「なら紫月の領域で押さえながら、一点だけ断つ」
夕璃が言う。
頭の中がようやく形になる。
「紅羽が正面で固定。琥珀は残骸の周りの脈動を潰して、流れを散らす。詩乃は切断の瞬間に周囲の気配を抑えろ。紫月は住民側の反動を受ける方に集中。わたしが接続点を落とす」
「また一番危ないとこやる気?」
琥珀が言う。
「隊長だからな」
「今それ言うのずるい」
「便利だから使ってるだけだろ」
紅羽が横から刺してきた。
夕璃は少しだけ口元を引いた。
「それは否定しない」
「否定しろ」
「今は無理」
紅羽は深く息を吐いた。
でも、反対はしなかった。
「……三秒で終わらせろ」
「努力はする」
「そういう返事が一番不安なんだが」
「わかる」
紫月が小さく言う。
「わたしもそう思う」
「ひどいなあ」
「でも、やるしかないよね」
紫月のその言葉で、全員の空気が揃った。
もう行くしかない。
「位置、つく」
夕璃が言う。
紅羽が前へ。琥珀は右。詩乃は広場の縁へ滑り、紫月は鐘と住民たちの間に立つ。白い光が静かに広がる。
夕璃は鐘の残骸の前へ出た。
耳の奥がざわつく。
またあの影が見える。
今度は時計台の影じゃなく、夕璃のすぐ左。視界の端。立っている。近い。近いのに輪郭がない。
「……誰」
口の中だけでつぶやいた。
返事はない。
でも、その影はもう一度だけ、接続点を指した。
だったら今は、それでいい。
「行くよ!」
夕璃が叫ぶ。
紅羽の槍が鐘の上部を抑え込む。
琥珀の拳が右側の脈動を叩き潰す。
詩乃の気配がすっと広場の外へ広がって、空気が少しだけ静かになる。
紫月の光が、住民たちの方へ強く寄る。
そして夕璃は、接続点へ向けて長刀を振り下ろした。
斬る。
硬い。
でも通る。
直後、世界がぐらっと揺れた。
鐘の残骸が鳴くみたいな音を立てる。今まででいちばんひどい音。頭の中へ直接突っ込んでくる。
「……っ」
夕璃の膝が落ちかける。
同時に、住民たちが一斉に息をのんだみたいに震える。
「紫月!」
「押さえてる!」
声が苦しそうだった。
まずい。
一撃じゃ足りない。
夕璃は歯を食いしばる。
ここで止まったら、紫月が持たない。
だからもう一度。
接続を深く落とす。
夢の残りみたいなざわつきが、刃の奥へ流れ込む。
嫌だ。
でも、使う。
「借りる……!」
夕璃がほとんど噛みつくみたいに言って、もう一度斬った。
今度は残響も重ねる。
二撃目が遅れて走り、接続点を十字に裂く。
黒い筋がぶつっと切れた。
次の瞬間、広場を満たしていた嫌な気配がまとめてほどける。
住民たちが、その場で崩れ落ちた。
「受ける!」
紫月が叫ぶ。
白い光が一気に広がる。
それが住民側へ流れた反動を受け止めて、散らして、押し返す。
でもその分、紫月の体がぐらついた。
「紫月!」
夕璃が駆け寄るより先に、琥珀が飛んだ。
「先輩!」
支える。
紫月はなんとか倒れない。でも、顔色が完全に悪い。唇の色まで薄くなっている。
「……だいじょうぶ、だから」
「だいじょうぶじゃない!」
琥珀が珍しく怒鳴った。
その声で、紫月が少しだけ目を丸くする。
広場の住民たちは、数秒遅れてようやく現実へ戻ったみたいに、倒れたまま苦しそうに息をし始めた。泣き出す人、咳き込む人、ただ座り込む人。
意識は戻った。
たぶん、助かった。
夕璃はその場に膝をつきそうになるのをこらえる。
耳の奥がまだうるさい。
視界も少しだけ揺れている。
でも、その中で一つだけ、はっきりわかったことがあった。
さっきの影。
あれは、気のせいじゃない。
そう思った瞬間、通信が鳴った。
『第七、応答して』
綾瀬冬子だった。
『今の反応、見た。黒瀬さん、あなたの波形、また乱れた』
やっぱり見られてた。
夕璃は顔をしかめる。
『皇さんはこれ以上だめ。そこで下がって。第七は任務を区切る』
「でも、まだ区画確認が」
紅羽が言う。
『黄と緑が入る。あなたたちは一度下がって評価を受けて』
命令だった。
それも、たぶん妥当な命令。
夕璃は紫月を見る。
紫月は支えられながら、それでも「まだ行ける」と言いそうな顔をしていた。だから先に言う。
「下がる」
紫月の口が少しだけ止まる。
でも、反対はしなかった。
琥珀が支えたままうなずく。
「それがいい」
紅羽も息を吐いた。
「異論なしだ」
詩乃は少しだけ目を細めて、夕璃を見る。
「……夕璃ちゃんも、ほんとは今あんまりよくないでしょ」
「そんなことない」
「嘘」
「言い切るなよ」
「今日の顔、ちょっと見ればわかる」
そう言われると返しづらい。
たぶん詩乃は、自分と似た危うさの匂いに敏感だ。
夕璃は視線をそらして立ち上がる。
そのとき、視界の端に、またあの女の人の影が見えた。
今度は広場の外れ。
こっちを見ている。
顔はやっぱり見えない。
でも、たしかにそこにいる。
誰にも言わず、夕璃はその影を見返した。
影は何も言わない。
ただ、少しだけうなずいたように見えた。
次の瞬間には消えていた。
「……隊長?」
琥珀の声で、夕璃は前を向く。
「行くぞ」
自分でも少しだけ声が硬いのがわかった。
第七部隊は、黄虹隊と入れ替わるようにD区画を離れる。
助けた住民たちの泣き声が、背中に残る。
よかった、と思う。
でも、ぜんぶよかったでは終われない。
紫月は限界が近い。夕璃の頭のざわつきも消えてない。そして、見えてはいけないものが見え始めている。
発進ゲートへ戻る途中、誰もあまり喋らなかった。
琥珀だけが紫月を支えながら、時々「大丈夫?」と聞く。紫月はそのたびに「うん」と返す。でも、その声はだんだん細くなっていた。
紅羽は前を向いたまま無言。詩乃も静か。
夕璃も、何を言えばいいのかわからなかった。
だからそのまま歩く。
ただ足音だけが並ぶ。
ようやく外壁下の回収ポイントが見えたとき、夕璃は少しだけ安堵した。
ここまで戻れば、一度は切れる。
そう思った。
思ったのに。
その直後、頭の奥で、またあの声がした。
今度は夢の中よりずっと近く、はっきりと。
今度は、じゃない。
――今度も、だ。
「……っ」
夕璃の足が止まる。
「隊長?」
紅羽が振り返る。
言葉が出ない。
視界がぐらりと傾く。
そしてその瞬間、夕璃の耳元で、誰もいないはずの場所から、女の人の低い声がはっきり落ちた。
「また遅い」
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