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アヴェルの残響が聞こえる――千年を生きた老人の終わらない旅  作者: ケンタッキー美味かったな


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4/5

第三話 所持品

目を覚ました。


最初に感じたのは硬さだった。

冷たい石の感触が背中に伝わっている。


ゆっくりと瞼を開く。

見慣れない天井があった。


いや、違う。

天井ではない。


思わず眉をひそめた。


見上げた先には石の階段が続いていた。

螺旋を描きながら、どこまでも上へ伸びている。

果ては見えない。

暗闇の向こうへ消えていた。


体を起こす。

そこでようやく、自分が階段の途中に寝転がっていた

ことに気付いた。

(……何だ、ここは。)


立ち上がり、下を見る。

階段は続いていた。

上と同じように。


果てなく。

終わりなく。


壁はなく、窓もない。

あるのは石の階段だけ。


その外側には、闇とも空ともつかない何かが広がっている。


長く生きてきた。

数え切れない景色を見てきた。

だが、こんな場所は知らない。

少なくとも、俺の記憶にはない。


『やぁ』

不意に声がした。

振り返る。

階段の少し上。

そこに一人の男が立っていた。


年齢は分からない。

若く見えるのに、老人のようにも見えた。


顔立ちは整っているはずなのに、何故だか印象に残らない。霧がかかっている様で、気色が悪い。


男は穏やかに笑う。


『やっぱり君は面白いよ』

「……誰だ」

『探し物は見つかったかい?』


まるで旧友に話しかけるような口調だった。


「誰だと聞いている」

男は肩をすくめる。


『さあ? 僕にもよく分からないな』

「ここはどこだ」

『それも難しい質問だね』


男は困ったように笑った。


『君たちは色んな呼び方をする。死の先、夢の果、世界の裏側、神々の庭とかね』

「答えになってない」

『そうかな?』


男は楽しそうだった。

まるで会話そのものを楽しんでいるように。

その態度が妙に気に入らない。


「……お前が、残響というやつなのか」


男は一瞬だけ目を丸くした。

それから吹き出すように笑う。


『違う違う』


心底おかしそうに首を振る。


『僕はそんな大層なものじゃない』


男は一歩だけ近づいた。


だが足音は聞こえない。

衣擦れの音もなければ呼吸の音すらなく、ただ人の形をした影だけが横を通り過ぎていくような不気味さがあった。


『まあ落ち着きたまえ。せっかく会えたんだ。少しくらい話をしようじゃないか』



この男は異様だ。

俺の本能が告げている。


近づいてはいけない存在だ。


男は階段に腰掛けた。

『君みたいな、人間を見るのは初めてなんだ。

 やっぱり、我慢できなくてさ、少し話したくなったんだ』

「どういう意味だ」

『そのまんまだよ。君みたいな、何百年も生きてる人間なんて、初めて見るんだ』



俺は、廃倉庫で死んだはずだ。

いや、どうせ死んでいないのだが。


「それで、何のようだ」

『一つ、アドバイスしようと思ってね。

 君は残響を探しているんだろう?』

「……それがどうした」

『なら、あの子を見失うな』

「なぜだ」


男は少しだけ考えた。


『うーん、そうだね。

 あの子の中には、消えなかったものがある、とでも言っておこうか』


「お前のような奴を信じる理由がない。どうやって、その言葉を信じろと?無理な話だ」


『信じなくていいさ』

男は笑った。


『そもそも君は、誰かを信じてここまで来た訳じゃないだろう?』

「……何が言いたい」

『別に。少し不思議だなと思ってね』


男は頬杖をついた。


『君は何百年も探し続けている。残響だとか、失われた想いだとか、そういうものを追いかけて世界中を歩き回っている。それなのに、一度も立ち止まって考えなかったのかい?』

「何をだ」

『見つけた後のことをさ』


『だってそうだろう? 君は答えを探している。ずっと探している。けれど、もし本当に答えが見つかったらどうするんだい?』

「……」

『探し物が見つかった後、君は何をする?』


その問いに、すぐ答えられなかった。

考えたことがなかった。

いや。

考えないようにしていたのかもしれない。

男はそんな俺を見て、満足そうに目を細めた。


『やっぱり面白いなぁ』

「お前……」

『怒らないでくれよ。馬鹿にしてる訳じゃない。本当に興味深いんだ』


男は笑う。


『君はずっと過去を見ている。何百年も、何百回も、同じ場所を振り返っているのに、それでも前を向こうとしない』

「知ったような口を利くな」

『知ってるさ』


男は即答した。


『だって君を見てきたんだから』

空気が変わった気がした。


『本当に君らしくないよね』


言葉を返さなかった。

いや、返せなかった。


『放っておけば良かった。見捨てても良かった。君なら今までそうしてきたはずなのに』

男は肩をすくめる。


『それでも連れてきた。だから言ってるんだよ』


男の表情から、ほんの少しだけ笑みが消えた。

『あの子から目を逸らさない方がいい』


『君が何百年も探していたものよりは、ずっと近くにあると思うよ』

「何の話だ」

『それを教えてしまったら』


男は愉快そうに肩を震わせた。


『本当に面白くなくなるじゃないか』


クソッ。


こいつの話を聞いていると妙に苛立ってくる。


何を聞いてもまともに答えず、答えたと思えば肝心なところだけを綺麗に避けていき、そのくせこちらの事情ばかり知っているような口を利くのだから始末が悪い。


信用してはいけない。

そんなことは分かっている。

目の前にいるのは人間じゃない。


少なくとも、俺の知る人間ではない。


『あぁ、それと』


男がふと思い出したように言った。


『あの子の名前だけど』

「……何だ」

『君、まだ呼んでないだろう?』


おい、お前。

そういえば、今までそんな呼び方しかしていなかった気がする。


『名前がないのは不便だからね』


男はそう言って肩をすくめると、まるで大した話でもないと言わんばかりの気軽さで続けた。


『だから、一つ教えておくよ』

「教える?」

『そう』


男は少しだけ考えるような素振りを見せ、それから何かを思い出したように小さく笑った。


『エルナ』

「……エルナ?」

『うん』


男は満足そうに頷く。 

『悪くないだろう?』

「それがあいつの名前なのか」

『さあ』


あまりにも迷いのない即答だった。

思わず顔が引きつる。

男はそんな俺を見て楽しそうに笑った。


『本当の名前かもしれないし、違うかもしれないし、そもそも名前なんて案外そんなものじゃないか』

「ふざけているのか」

『まさか』


男は首を横に振る。

『ただ、呼び名は必要だろう? 名前のないものは不便だし、何より誰かに呼ばれなければ存在はどんどん曖昧になっていくからね』


その言葉だけは、不思議と妙に耳に残った。


男は立ち上がる。

俺の横を通り過ぎる。

だが足音は聞こえない。

衣擦れの音もなければ呼吸の音すらなく、ただ人の形をした影だけが横を通り過ぎていくような不気味さがあった。


『エルナ』


男はもう一度その名を口にした。

『きっと気に入ると思うよ』

「待て」


男の足が止まる。

『ん?』

「お前は何者だ」


男は背を向けたまま黙り込み、それから小さく肩を震わせた。

笑ったのだ。


『誰だろうね』

まるで本当に分からないとでも言うような口調だった。


『もし次に会うことがあったら、その時までに考えておいてくれ』


その瞬間、世界が揺れた。

どこまでも続いていた螺旋階段が歪み、闇が崩れ、景色そのものが溶けるように形を失っていく中で、男の姿だけが少しずつ遠ざかっていく。


『じゃあね』

最後に聞こえたのは、ひどく楽しそうな笑い声だった。


—————————————————————————-

おじさんが、目を覚さない。


あれから、何時間経っただろうか。

私は、ただ、おじさんの亡骸の前でへたり込んでる。


何も考えられない。


人が死んだ。

名前も何も知らない老人が、自分を助けて死んだ。


それだけだ。

それだけの事なのに、


何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で


「……何で」


この人は、私のために死んだんだろう。


空っぽの私だ。

自分が誰かも知らない、何の意味もない人生だ。

死ぬべきは、私だったんじゃないのか。


この人は、まだ残ってる人なんだ。

私なんかより、よっぽど価値がある。

死んじゃいけない。


それなのに、何も知らない人間を助けて、死んだ。


死ぬべきなのは、誰だったのか。


「……….おじさん、じゃない」


その時だった。


床に広がった血の中で、老人の指先がほんの僅かに震えた気がした。


気のせいかと思った。

でも違った。


次の瞬間、切り落とされた腕の付け根あたりから、黄緑色の何かが顔を出したのだ。


最初は細い芽のように見えた。

けれど、それは芽なんかじゃなかった。


細く、湿った蔦のようなものが、ゆっくりと傷口の奥から伸びてくる。


一本。


また一本。


それはまるで、最初からそこにあったものがやっと外へ出てきただけだと言わんばかりに、静かに、しかし確実に増えていった。


「……なに、これ」


声が掠れる。

蔦は床へ落ちた血を避けるでもなく、その上を這うように広がっていくと、老人の切断された腕の方へ向かって伸び始めた。


信じられなかった。

だって今、目の前にあるのは、死体だと思っていた老人なのだ。


なのに、そんなことはどうでもいいとでもいうように、黄緑の蔦は淡々と動き続けていた。


腕へ届く。

絡みつく。

巻きつく。

そして、引き寄せる。


一本ではない。

二本でもない。


何本もの蔦が、失われた腕を取り戻そうとするみたいに、床の上でうごめいていた。


少女は息を呑んだまま、その光景から目を離せなかった。


怖いはずだった。

気味が悪いはずだった。


でも、それ以上に、目の前で起きていることが何なのか分からなくて、ただ見つめることしかできなかった。


蔦はさらに増えた。

老人の肩口に残っていた傷へ、裂けた服の隙間へ、血に濡れた皮膚の上へ、まるで何かを包み込むように絡まり、ゆっくりと全身を覆っていく。


腕だけではない。

胸も。

腹も。

首も。


少しずつ、少しずつ、黄緑の蔦が老人の姿を隠していった。


それはまるで繭だった。

いや、繭というにはあまりに生々しく、あまりに静かで、もっと別の、見てはいけないものに近かった。


倉庫の中には、もうほとんど音がなかった。


少女の荒い呼吸だけが、小さく震えながら響いていた。


そして――


どくん。


蔦の塊が、脈打った。

「……っ」

少女の肩が跳ねる。

見間違いじゃない。

今、確かに動いた。


どくん。


もう一度。

まるで心臓みたいだった。


死んでいるはずの老人の代わりに、その黄緑色の繭が、何かを抱え込むようにゆっくりと鼓動している。


「おじさん……?」

返事はない。


それでも、少女は目を逸らせなかった。

怖い。

なのに、少しだけ――ほんの少しだけ、さっきまで胸を締め付けていた絶望が揺らいでいく。

この中で、何かが生きている。

そんな気がした。


 どれくらい時間が経ったのだろうかと少女がぼんやり思い始めたころ、倉庫の中に満ちていた静けさのただ中で、黄緑色の蔦に覆われた繭が、まるで深い眠りの底から呼吸を取り戻すみたいに、ゆっくりと、しかし確かな間隔をもって脈打ち始めた。


 どくん、と一度。


 少女は思わず息を呑む。気のせいではない。さっきまで死体のように動かなかったそれが、今は確かに生き物じみた律動を刻んでいて、繭の表面を覆う細い蔦までもが、その鼓動に合わせるように微かに揺れていた。


 どくん。


 もう一度、重たく響くような音がする。少女は目を離せなかった。怖いはずだった。気味が悪いはずだった。なのに、それ以上に、今そこに何が起ころうとしているのかを知りたくて、ただ繭を見つめることしかできなかった。


 ぱき


 少女の肩がびくりと跳ねる。今度こそ、音は繭の内側から聞こえた。乾いた枝が折れるような音が続けて何度か響き、それから表面の蔦の一部に、細い亀裂のようなものが走った。最初はほんのわずかだったが、次第にその筋は長くなり、黄緑色の膜を内側から押し広げるように、ゆっくりと裂け目を広げていく。


「……っ」


 少女は喉を鳴らしたまま、その場から動けなかった。繭の裂け目の奥には黒い布が見えた。見慣れた外套の色だった。次の瞬間には、その黒の隙間から、白く傷だらけの指が現れ、蔦を掴んで、少しずつ、けれど容赦なく引き裂き始める。ぶちぶち、と湿った音がして、絡み合っていた蔦が千切れ、ほどけ、床へ落ちていった。


 やがて、繭の中から一人の老人が姿を現した。肩で荒い息をしていて、顔色はまだ悪く、血の気もほとんど戻っていない。

まるで死んだまま立ち上がってきたような、ひどく頼りない有様なのに、それでも確かにそこにいて、生きていた。


 老人はゆっくりと顔を上げ、少女を見た。


「……何だ」

 掠れた声だった。


「おじさん……!」

「うるさい」


 第一声がそれだったので、少女は泣き笑いのような顔になる。老人は面倒くさそうに眉をひそめながら、まだ体に絡みついている蔦を乱暴に引き剥がし、残っていた繭の名残を床へ落としていく。


「本当に……生きてる……」

「だからそう言っているだろう」

「だって死んでたし……」

「死んでない」


 少女の声が倉庫に響く。老人はそれを聞き流すように息を吐き、ゆっくりと自分の体を確認した。腕は繋がっている。裂けていた傷も、もうほとんど塞がりかけている。相変わらず、どういう理屈か分からない体だ。死ねない。壊れても、傷付いても、結局こうして戻ってくる。


 そのときだった。

 ふと、老人の口から何の前触れもなく、一つの音が零れた。


「……エルナ」


 少女が首を傾げる。


「え?」


 老人自身もそこで初めて気付いたように、わずかに眉をひそめた。今のは何だ。自分で口にしたはずなのに、言葉の出どころが分からない。だが、妙に鮮明に残っている。ずっと前から知っていた音のようでもあり、今さっき誰かに耳打ちされたばかりのようでもあった。


「今、何て言ったの?」

「……知らん」

「知らんって」

「本当に知らん」


 老人は額を押さえ、しばらく黙り込んだ。そこで、あの螺旋階段の男の顔が、急に脳裏へ浮かぶ。白い世界。腹立たしい笑み。楽しそうな声。あの子の名前だ、と言っていた声。


そこまで思い出した瞬間、老人は心底嫌そうな顔をした。


「あぁ……」

「何?」

「思い出した」


 身を乗り出す。老人は面倒そうに視線を落とし、しばらく逡巡してから、吐き捨てるように言った。


「妙なやつが言っていた」

「妙なやつ?」

「お前の名前だ。エルナ」


 倉庫の中がすっと静かになる。少女は何も言わなかった。ただ、その音を確かめるみたいに、何度も心の中で繰り返しているようだった。


「エルナ……」


 小さな声でつぶやく。まるで初めて触れるものを、壊さないようにそっと持ち上げるみたいな声だった。


「それが……私の名前?」

「知らん」

「またそれ」

「本当に知らん」


 老人は肩をすくめる。


「だが、そう呼べと言われた」


 少女は黙ったまま、少しだけ目を伏せた。長い沈黙が落ちる。やがて、少女はゆっくり顔を上げ、今度はさっきよりも少しだけはっきりした声で、その名前を口にした。


「……エルナ」


 そして、ぽつりと笑う。


「悪くないかも」


「好きにしろ」

「うん」


 そこで少しだけ間を置いてから、エルナは老人の足元に散らばった黄緑色の蔦を見やり、それからまた顔を上げた。

さっきまであれほど怖かったのに、今は不思議とその繭の名残が気になって仕方がない。


「あのさ」

「何だ」

「おじさん、さっき繭みたいだったよね」

「……何が言いたい」

「だから、マユおじさん」


老人の顔がぴたりと止まった。

エルナはそれに気付かず、少し照れくさそうに続ける。


「だって、繭から出てきたし。マユって感じするし」

「却下だ」

「えー」

「却下だ」

「じゃあ、マユ爺は?」

「最悪だ」

「じゃあ、もっと嫌?」

「……最悪だ」


 エルナはくすりと笑った。老人はそんな彼女を睨みつけたが、いつものように本気で怒っているわけではないらしく、結局は深いため息をひとつ吐いただけだった。


「……勝手に呼べばいいだろう」

「いいの?」

「知らん」

「ふふ。じゃあ、マユ爺」

「聞け」

「マユ爺」

「やめろ」


 そう言いながらも、老人は立ち上がろうとして少しよろけ、それを見たエルナは慌てて手を伸ばしかけた。


老人はそれを鬱陶しそうに払いのけるが、拒むほど強くはない。その様子を見て、エルナはさっきまでの泣き顔のまま、今度は本当に小さく笑った。


恐怖もある。動揺もある。

分からないことしかない。


それでも


エルナ


この名前は、私の踏み出す第一歩。

そして、私の初めての持ち物だ。




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