第四話 旅の始まり
それからと言うのは、本当にあっけないほど早く終わった。
マユ爺が倉庫の外へ出ると、懐から何かを取り出して空へ打ち上げた。すると、それを合図にしたみたいに、しばらくして衛兵たちが駆けつけてきて、倉庫の中に転がる三つの死体と黄緑色の繭の残骸を見て、当然ながら揃って顔をしかめた。
「これは一体どういうことだ」
そう問われても、マユ爺はまったく動じなかった。
「知らん。倉庫へ来たら、そいつらの死体とこれが転がっていただけだ」
そう言い切った。
完全に嘘だ。
だが、あまりにも平然としていたせいか、それとも衛兵たちのほうも確たる証拠を掴めなかったのか、結局それ以上は追及されなかった。
面倒事が嫌いだとは思っていたが、ここまで露骨だと逆に感心するしかない。
夜が明けきるころ、私たちはようやく宿へ戻った。
東の空が薄く白みはじめていて、宿の軒先に張られた蜘蛛の巣が朝日を受けて出迎えてくれた。
はぁ、と私は長い息を吐いた。
長かった。
たった一日だったはずなのに、やけに濃い一日だった。雪原で老人に拾われて、それから誘拐されて、死にかけて、マユ爺が死んで、繭みたいになって、それでまた生き返って。こんな一日が本当にあっていいのか分からないけれど、少なくとも私はもう一人じゃなかった。
いや、正確には、ここで別れるはずだったのだ。
だから私は、宿の前で立ち止まって、それでも一度きちんと言わなきゃと思って、老人のほうへ向き直った。
「それじゃあ、お世話になりました」
マユ爺は扉に手を掛けたまま、ぴたりと動きを止めた。
「……何を言っている」
「え?」
「何を言っていると聞いた」
私は首を傾げる。
「だって、今日の朝までって言ってたじゃん」
「何がだ」
「昨日、そう言ったよね。宿まで送ったら終わりだって」
マユ爺はしばらく黙った。
それから、ひどく面倒くさそうな顔をして、ぼそりと答える。
「知らんな」
「いや、言ったよ!」
「記憶にない」
「嘘だ!」
「証拠はあるのか」
「開き直った!」
そんな私の声を聞いているのかいないのか、ため息ひとつで済ませると、そのまま宿の中へ入っていく。私は呆然としてその背中を見送ったが、次の瞬間、奥から返ってきた声に思わず目を丸くした。
「早く来い」
「え?」
「準備をしろ」
振り返りもしない。
それだけで十分だと言わんばかりの声だった。
「……準備?」
「旅は長いぞ」
一瞬、意味が分からなかった。
旅。
今、この人は確かにそう言った。
私はまばたきを繰り返しながら、宿の入口と、その奥へ消えたマユ爺の姿を交互に見た。
「……私も?」
「他に誰がいる」
「え、でも、昨日は……」
「面倒だから二度言わせるな」
深いため息を吐く。
まるで、これ以上考える必要もないとでも言うみたいに。
私は、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。けれど、胸の奥だけは先に温かくなっていた。
一人で行くものだと思っていた。
もう、そこで終わるのだと思っていた。
なのに。
「……本当に?」
「何がだ」
「一緒に行くの?」
「だからそう言っている」
「え、でも、私……」
「邪魔なら置いていく」
「ひどっ」
「事実だ」
マユ爺はそこでようやくこちらを見た。
相変わらず仏頂面で、相変わらず口も悪くて、相変わらず不機嫌そうなのに、どういうわけか私はその顔を見て、自然と笑ってしまった。
「……じゃあ、行く」
「最初からそうしろ」
「マユ爺、やっぱり優しいんだ」
「誰がだ」
「今の会話で分かった」
「何も分かっていないな」
「分かったもん」
「分かっていない」
朝の光の中でそんなやり取りをしているうちに、私はようやく宿の扉へ足を向けた。
老人にとって、人との接触は久しくしてこなかったものだった。
人と関われば、余計なことが増える。
面倒事が起きる。
だからずっと、一人でいた。
その方が楽だった。
そう、思っていた。
たが、あの夢の中の男が言った、
『少女を旅に連れて行け』
大人しく、従っていいものか。
あいつは、間違いなくウソをついている。
何がウソかは分からない。だが、こちらに利益になるようなことをする人間には見えなかった。
それでも、今まで何の成果もなかったのも事実だ。
あいつの思惑がどうあれ、こいつ、いや、エルナを連れて行っても、何か問題がある訳じゃない。
だから、暫くはあいつの言う通りにする。
だが、いつまでもはダメだ。絶対に裏切られる。
見切りをつけるタイミングを間違えるな。
….………..もう見切りを付けるタイミングかもしれん。
老人は無言になった。
本当に無言になった。
旅支度を終えたエルナが宿の前で待っていた。
大量の食料と共に。
いや、大量という表現では足りない。
干し肉の袋がいくつも積み上げられ、その隣には保存食が詰まった木箱が置かれ、水袋が何本もぶら下がり、毛布や衣類が山のように積まれていて、その上には鍋やら食器やらが無秩序に載せられていた。
何故か椅子まである。
旅支度ではない。
引っ越しだった。
エルナはそんな荷物の山の前で満面の笑みを浮かべている。
「エッヘン!準備できた!」
老人は深く息を吸った。
そしてゆっくり吐いた。
頭が痛い。
「おま――」
そこまで言って止まる。
今までは『お前』で済ませていた。
だが今は名前がある。
「いや、エルナ」
「ん?」
「どうやって持っていくつもりだ」
エルナはきょとんとした顔で首を傾げた。
「え?」
「その荷物だ」
エルナは荷物を見る。
それから老人を見る。
もう一度荷物を見る。
「頑張って?」
「量を減らせ」
即答だ。当たり前だろう。
「えぇっ!?」
「半分だ」
「無理だよ!」
「八割減らせ」
「増えてるじゃん!」
老人は額を押さえた。
旅に出る前から疲労感が凄まじい。
「まず聞くが」
「うん」
「椅子は何だ」
エルナは当然のように答える。
「疲れた時に座る用」
「地面がある」
「でも硬いよ?」
「地面だからな」
「なるほど」
エルナは慌てて椅子を荷物から降ろしたが、次の瞬間には別の袋を抱え上げる。
「じゃあこれは?」
エルナが胸を張って、大きな麻袋を持ち上げる。
「何だ」
「非常食!」
「何日分だ」
「三十日!」
「減らせ」
「何で!?」
「何故、旅に出る前から遭難する前提なんだ」
「だって、お腹空くかもしれないじゃん!」
「毎日空く」
「じゃあ必要だよ!」
「三十日分はいらん」
エルナがむぅ、と頬を膨らませる。
「じゃあ二十五日!」
「そういう問題じゃない」
「二十日!」
「交渉するな」
老人はため息を吐き、荷物へ視線を落とす。
「……しかも鍋が二つある」
「予備!」
「最初から一つでいい」
「なるほど!」
「納得するな」
エルナは慌てて片方の鍋を下ろした。
だが、今度は別の物を取り出す。
「じゃあこれは?」
「……何だ」
「フライパン!」
「もっと要らん」
「酷い!」
「旅先で何を作る気だ」
「目玉焼きとか」
「卵をどこから調達する」
「……あ」
「今気付いたのか」
エルナはしばらくフライパンを見つめ、それから静かに荷物へ戻した。
だが、すぐにまた顔を上げる。
「じゃあお皿!」
「手がある」
「コップ!」
「手で飲め」
「フォーク!」
「指が五本も付いているだろう」
「文明を捨てる気!?」
老人は額を押さえた。
旅に出る前から、もう既に疲れていた。
何百年も生きてきたが、魔物と戦うより疲れる気がする。
エルナは荷物の前で腕を組みながら真剣に悩み始めた。
「あっちを減らすか……いやでもこっちも必要だし……」
ぶつぶつと呟きながら荷物を並べ替える姿を見ていると、本当にこいつを連れて行って大丈夫なのかという不安しか湧いてこない。
騒がしいし、落ち着きもないし、一人で勝手に喋るし、本当に面倒な奴だ。
だが、不思議と追い返そうとは思わなかった。
昨日までなら間違いなく置いて行っていたはずなのに。
老人はその理由を考えないことにした。
考えたところで答えなど出ない。
どうせ一時的なものだ。
どうせそのうち別れる。
だから問題ない。
そう自分に言い聞かせながら、老人は荷物の山へ歩み寄った。
「……全部並べろ」
「選んでくれるの?」
「最低限必要な物だけ残す」
エルナの顔がぱっと明るくなる。
「やった!」
「やってない」
朝日が差し込む宿の前で、エルナは嬉しそうに荷物を広げ始めた。
老人はそんな様子を見ながら胸の奥に生まれた妙な感覚から目を逸らすように空を見上げる。
どうにか荷物を減らし終えた頃には、朝日もすっかり昇っていた。
結局、半分以上は宿に置いていくことになり、エルナは最後まで名残惜しそうに鍋を抱えていたが、最終的には渋々諦めた。
老人は背負い袋を肩へ担ぎ、そのまま宿の外へ出る。
エルナも慌てて後を追った。
街はまだ静かだった。
朝の空気は少し冷たく、通りには人影もまばらで、開き始めた店からだけ、かすかに生活の音が漏れている。
「それで、どこに向かうの?」
隣へ並びながら、エルナが尋ねた。
老人は少しだけ空を見上げた。
「……人のいる場所だ」
「いや、人はここにもいるけど」
「もっと多い場所だ」
「何かあるの?」
「噂話を探す」
「噂話?」
「ああ」
「どんな?」
「不思議な話だ」
それだけ言うと、老人は歩き出した。
エルナはきょとんとして、その背中を見る。
「え、それだけ?」
「それだけだ」
「目的地とかないの?」
「東へ向かう」
「東のどこ?」
「歩けばそのうち着く」
「適当すぎない!?」
老人は答えない。
ただ、朝日に照らされた街道を淡々と歩いていく。
エルナは慌てて後を追い、その隣へ並んだ。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「大丈夫じゃなかったことはない」
「それ、全然安心できないんだけど」
「そうか」
「そうだよ!」
朝の静かな道に、エルナの声だけがやけに響く。
老人は小さく息を吐いた。
そして、一度だけ後ろを振り返る。
雪原から始まった奇妙な縁も、この街で終わるはずだった。
それなのに今、隣には記憶のない少女がいて、これから先も当たり前のようについて来るつもりでいる。
……本当に、どうしてこうなった。
そう思いながらも、老人は何も言わなかった。
やがて二人の背中は街を離れ、朝日に照らされた街道の向こうへと小さくなっていった。




