第二話 不死の老人
宿へ戻ると 少女の姿はどこにもなかった。
部屋を見回しても 荷物はそのままで 扉も半分開いたままになっている。
(……あいつ どこへ行った)
だが すぐに首を振る。
俺には関係のないことだ。
どうせ明日には別れる相手だ 少し早く姿を消したところで 気にする理由などない。
そう思って椅子に腰を下ろしたが 落ち着かない。
窓の外から聞こえる酒場の笑い声や 人々の話し声が妙に耳についた。
……うるさいやつだった。
久しく誰かとあれだけ言葉を交わした覚えはない。
久しく誰かに振り回された覚えもない。
人と関わるのは面倒だ。
相手の顔色を窺い 余計なことを考え 昔を思い出してしまう。
だからずっと 一人でいることを選んできた。
……だが あいつは少しだけ違った。
こちらのことなどお構いなしに勝手に喋り 勝手に笑い 一つ返せば十になって返ってくる。
静かにしてくれと思ったくせに いなくなれば妙に静かで 気味が悪い。
老人は深く息を吐いた。
何をしている。
明日には別れると決めたじゃないか。
放っておけばいい。
どうせどこかで道草でも食っているだけだ。
…………..あの顔が煽るように、話しかけてくる。
あの、こびりついたような笑顔。
あぁ、本当にイライラする。
「……しょうがない」
その一言だけを残し 老人は再び宿の扉を開け 夜の街へ駆け出していった。
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「……あいつらは何だって?」
「金になれば良い、だとよ」
「そうか……好きにして良いんだな?」
男たちの声が聞こえて、意識が浮かび上がった。
頭が痛い。
殴られた場所が脈打つたびに鈍い痛みが広がって、ぼんやりとしていた意識が少しずつはっきりしてくる。
薄く目を開くと、見覚えのない天井があった。
灰色の、物置部屋だろうか。
嫌な予感がした。
慌てて体を起こそうとして、そのまま床に倒れ込む。
手がつけない。
いや、違う。
両手が後ろで縛られていた。
心臓が大きく跳ねた。
何度も手首を捻り、縄を擦りつけるようにしてみるが、固く結ばれた縄はびくともせず、動けば動くほど手首に食い込んで痛みだけが増していく。
まずい。
本当にまずい。
男たちの話は半分しか聞こえなかったが、それでも十分だった。
あいつらは私を金に換えるつもりだ。
売るのか、それとも別の何かか。
考えたくもない想像が次々と頭をよぎって、背筋が冷たくなる。
逃げなきゃいけない。
今すぐに。
けれどどうやって。
足も自由じゃない。
扉は目の前の物しかない。
武器もない。
助けを呼んだところで誰かが来てくれる保証もない。
薄暗い倉庫の中には木箱や樽が積み上げられているだけで、役に立ちそうな物は何も無い。
まずい。
このままじゃ、本当に――。
そう思った瞬間、扉の向こうから男たちの笑い声が聞こえてきて、胸の奥がぎゅっと縮み上がった。
ガン!
突然、頭上から何かが落ちたような大きな音が響き、思わず肩を震わせる。
……今の音、何?
男たちの笑い声も止まった。
「何だ?」
「上か?」
訝しげな声が聞こえる。
その時だった。
背後から、聞き慣れた声がした。
「ここにいたか。何をしている」
……え?
反射的に振り返る。
そこには、見覚えのあるボロボロの外套と、見慣れた仏頂面があった。
「あ、おじさ――」
「大声を出すな。早く出るぞ」
老人はそれだけ言うと、まるで散歩の途中で道に迷った子供でも見つけたかのような気軽さでこちらへ歩いてきて、今がどういう状況なのかなどまるで気にしていないように私の後ろへ回り込む。
「あ? 何の音だ?」
扉の向こうから男たちの声が聞こえ、次の瞬間、乱暴に扉が開かれた。
部屋へ入ってきた男たちは、そこにいるはずのない老人の姿を見て、一瞬だけ呆気に取られたような顔を浮かべる。
だが、それもほんの一瞬だった。
すぐに眉間へ皺が寄り、そのうちの一人が短剣を指先で弄びながら前へ出る。
「……何だ、このジジイ」
老人は答えない。
「知らねえな」
「迷い込んだのか?だったら運が悪かったな」
男たちが低く笑う。
けれど老人は笑い声など聞こえていないかのように、後ろ手に縛られた縄を一瞥して、小さくため息を吐いた。
「面倒なことになっているな」
いや、本当に。
今さらですか。
というか、どうしてそんなに落ち着いているんだろう。
必死に目で訴える。
逃げて。
この人たち、絶対に危ない人たちだから。
けれど老人はそんな私の視線に気付いているのかいないのか、ちらりと男たちへ目を向けると、心底どうでも良さそうな声で口を開いた。
「その娘を連れて帰る」
一瞬だった。
倉庫の空気がぴたりと止まる。
男たちは互いに顔を見合わせ、それから堪えきれなくなったように吹き出した。
「はっ、聞いたか?連れて帰るんだとよ」
笑い声が倉庫に響く。
私の背筋には冷たいものが流れていた。
駄目だ。
人数が違いすぎる。
男は三人、それに全員武器を持っている。
対して老人は、外套を羽織っただけのどう見ても年老いた旅人でしかなく、正直なところ勝てる未来が全く見えない。
それなのに。
老人は男たちの笑い声が収まるのを待つように立ち尽くし――などしなかった。
次の瞬間には、もう走り出していた。
本当に突然だった。
何の前触れもなく。
何の威嚇もなく。
男たちの中で最も小柄な金髪の男へ向かって、一直 線に。
「は?」
男たちが目を丸くする。
私も思わず息を呑んだ。
ダメだ。
こんなの、ただの特攻じゃないか。
相手は武器を持っている。
しかも三人。
対して老人は素手だ。
どう考えても勝てるはずがない。
「ダメ!やめて!」
男が笑う。
「馬鹿が!」
短剣が振られる。
避ける気配はなかった。
ザシュッ――と鋭い音が響き、老人の左腕が肩口から切り飛ばされた。
血が舞う。
切り離された腕が宙を舞う。
普通なら、それで終わりだった。
けれど。
老人は止まらなかった。
速度すら落ちなかった。
まるで最初から腕など無かったかのように、そのまま男へ突っ込んでいく。
「……は?」
男の顔から笑みが消える。
一歩。
老人が踏み込む。
「ま、待――」
「人を斬るんだ」
老人の声は静かだった。
怒りもない。
殺気すらない。
ただ事実を確認するような声だった。
「殺される覚悟くらい、あるんだろう?」
その瞬間。
男の顔が初めて恐怖に染まった。
戦いで恐ろしいのは、力の差じゃない。
冷静さを失うことだ。
老人は男が怯んだ一瞬を見逃さなかった。
手首を掴み、短剣を奪い取る。
そして、喉を掻き切った。
次の瞬間には、男は床へ崩れ落ちていた。
まだ、僅かながらにピクピクと震えている。
あまりにも早かった。
何が起きたのか、残った二人には理解できなかった。
ただ仲間が倒れた。
それだけが現実だった。
「てめぇっ!」
そのうちの小太りの一人が怒鳴り声を上げる。
恐怖を振り払うように剣を握り締め、そのまま老人へ突っ込んだ。
老人は躱さない。
代わりに奪った短剣を投げた。
短剣は真っ直ぐ飛び、男の額へ命中する。
男の体勢がわずかに崩れる。
だが、それでも止まらない。
振り上げられた剣が老人へ叩きつけられた。
老人は反射的に腕を上げる。
ザシュ!
鈍い衝撃。
剣は腕に食い込み、そのまま止まった。
普通なら悲鳴を上げてもおかしくない一撃だった。
だが老人は眉ひとつ動かさない。
「なっ……」
男が目を見開く。
その隙だった。
バンッ、と鈍い音が響く。
老人の蹴りが男の膝を打ち抜いた。
体勢を崩した男の首筋へ、追撃が入る。
男はそのまま床へ倒れ込み、動かなくなった。
残った男は動かなかった。
仲間が二人やられた事で、返って冷静になっていた。
だが、同時に恐怖も湧き上がってくる。
目の前の老人は何かがおかしい。
「……正気か?」
思わず漏れた声に、老人は答えない。
ただ腕に食い込んだ剣を口で引き抜く。
その動作は、服に刺さった棘を取るくらい自然だった。
だが、先ほどとは違った。
切り口に沿って腕が垂れ下がり、その断面からは大量の血が流れている。
要するに、ズタズタだ。
少女にとっては、吐き気を催す光景だった。
この世のものとは思えない、おぞましい光景。
だが、男にとっては違った。
仲間は二人やられた。
だが、この老人も無傷ではない。
武器は失った。
腕もまともに使えない。
殺せる。
そう確信したのだろう。
男は深く息を吐き、今度は冷静に剣を構えた。
そして、老人に向かって低い姿勢のまま駆け出す。
ダッ――!
床を蹴る音が倉庫に響く。
先ほどまでの怒りも焦りもない。
訓練された通りの足運び。
訓練された通りの一撃。
剣が一直線に突き出される。
ヒュッ――
鋭い風切り音。
(狙いは喉。)
迷いのない刺突だった。
だが――
スッ。
老人は躱した。
紙一重だった。
剣先が鼻先を掠めるほど近かったというのに、まるで最初からそこへ来ると分かっていたかのように、ほんの僅かに首を傾けるだけで回避してみせる。
「なっ……」
男の表情が凍り付く。
あり得ない。
その怪我で動けるはずがない。
いや、だが武器はない。
それでも老人は止まらない。
踏み込む。
さらに一歩。
待て、
何かがおかしい。
男が慌てて剣を引き戻そうとした時には、もう遅かった。
老人は壊れた腕を突き出していた。
まるで槍のように。
常識では考えられない動きだった。
普通の人間なら絶対に選ばない。
選べるはずがない。
男の顔から血の気が引く。
目の前の老人は、最初から人間の常識で戦っていなかった。
次の瞬間、男の腹には何かが突き刺さっていた。
男は一瞬遅れて、気付く。
それは、骨だった。
一般の成人男性には、骨が206本ある。
だが、注目すべきはそこじゃない。
硬度だ。
骨の硬度はガラスや鉄と遜色ない。
大昔には狩猟で動物の骨を使っていたぐらいだ。
腕を失えば終わり。
男は、そう思っていた。
今までのどの相手も、剣を叩き折り、腕を切り付ると終わった。
そんな当たり前の前提が、崩れた。
「この、イカれヤロウが…..」
そう言うなり、男は崩れ落ちた。
それとほとんど同時だった。
老人の膝が折れた。
ドサリ、と重い音を立てて床へ倒れ込む。
•••••••••••••••••••••••
倉庫から音が消えた。
残っているのは、床へ広がる血の匂いと、荒い呼吸だけ。
私は動けなかった。
……何が起きたのか、分からない。
三人いた。 全員武器を持っていた。
それなのに勝った。
全員殺した。
目の前の老人は全部ひっくり返してしまった。
腕を斬られても止まらなかった。
血を流しても止まらなかった。
自分の骨すら武器にして戦った。
いや、今はそんな場合じゃない!
老人の周囲には大量の血が広がっている。
切り飛ばされた腕。
裂けた肉。
深く抉れた傷口。
どう見ても無事ではない。
私を助けるために。
こんな傷を負ったのだ。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「おじさん……!」
縛られたままの体を引きずりながら叫ぶ。
返事はない。
老人は床に倒れたまま微動だにしなかった。
急に恐ろしくなった。
ついさっきまで化け物みたいだと思っていたはずなのに。
今はただ、
この人が死んでしまうかもしれないことだけが怖い。
体を引きずるようにして床を這う。
縄が手首に食い込み、擦れた皮膚が痛んだ。
それでも止まれなかった。
床に広がる血を越え、倒れた老人へ近付いていく。
「おじさん……」
返事はない。
動かない。
呼吸をしているのかすら分からない。
………嫌だ。
嫌だ!嫌だ!
「———」
聞き取れない。
あまりにも小さな声だった。
「————————」
もう一度。
……….違う。おじさんじゃない。
この倉庫にいるのは私と老人だけだ。
けど、今はどうだっていい!
老人の瞼も口も閉じられたまま。
意識があるようには見えない。
それなのに、何かを聞いているような顔をしていた。
「——————————」
まただ。
まるで遠くの誰かに呼ばれているみたいに。
まるで――夢の中にいるみたいに。
「おじさん!」
返事はない。
嫌な想像が頭をよぎる。
このまま起きなかったら。
もし本当に死んでしまったら。
そんな考えを振り払うように、私は声を張り上げた。
「—————— ————-」
「うるさい!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
老人の肩が僅かに震える。
「起きて!」
「起きてよ!」
声が震える。
気付けば涙まで滲んでいた。
「私のためにこんなになったんでしょ!」
返事はない。
それでも叫ぶ。
「だから勝手に死なないで!」
少女の声だけが、静まり返った倉庫に響いていた。
——————————————————————————
誰かの呼ぶ声が聞こえる。
「——ん!」
「————-て!」
…….うるさい。
静かにしてくれ。俺は疲れたんだ。
もう、少ししたら目を開けるから。
それでいいだろ?
全員、殺したさ。無惨に殺した。
十分頑張ったさ。
俺は死なないんだ。どうせ、蘇る。
剣で斬り付けられても死なない。
火で炙られても死なない。
もう、少しすれば、すぐに目が覚める。
そして、また絶望の1日が始まる。
誰にも、生きることを望まれていない。死ぬことも望まれていない。
この世界に、既に俺の存在はない。
俺の生きた痕跡は無い。全て消えた。
……なあ。
君は今、どこにいるんだ。
俺だけを置いて。
この果てのない呪いを残して、
先に行ってしまった。
俺はまだここにいるぞ。
何百年もだ。ずっと一人だ。
俺は君の何だったんだ?
友人だったのか。
恋人だったのか。
それとも。
ただ近くにいただけの人間だったのか?
俺には分からない。
何百年考えても分からない。
君だけしか、分からないんだ。
なぁ、黙ってないで、答えてくれよ。
フィオラ。




