第一話 出会い
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…..寒い
体が、冷たい。
吹きつける風が肌を刺して、痛い。
指先の感覚は、もうほとんどない。
白い息が空へ溶けていく。
足元には雪。
どこまでも、どこまでも雪。
空も、大地も、境目が分からない。
ここは、どこ。
どうしてこんな場所にいるんだろう。
一歩、踏み出そうとする。
けれど、足がもつれて、そのまま雪の中へ倒れ込んだ。
冷たい。
頬に触れた雪が、やけに冷たい。
遠くで、風が鳴いている。
誰かが、私を呼んでいる気がした。
聞いたことのない声。
それなのに、どこか懐かしい声。
――ねぇ。
――起きて。
………起きて?
あぁ、そうか。
お迎えが来たのか。
全く、遅いよ。神様は来るのがいつも遅いんだよ。
ザッ、ザッ、
その時だった。
ザッ、ザッ、
雪を踏みしめる音が、一つ。
ザッ、ザッ、
また、一つ。
うっすらと、目を開けた。
誰かが、こちらへ歩いてくる。
誰だろう。神様かな?閻魔様は、嫌だよ….
「……..面倒だ」
うぅ、そんな、私を見捨てないで、神様……….
瞼が重たい。
これ以上は、もう………………….。
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………………暖かい。
それに、うるさい。
何かが、ぱちぱちと音を立てている。
うーーん…….うるさいよ。神様、静かにしてよ……
もうちょっと、ちょっとだけ。
あと、少しだけ寝させて……。
「あと、三分だけ……」
そう呟いた、その瞬間。
………………!!
私は、勢いよく飛び起きた。
ここは……?
辺りを見回す。
あの凍えるような寒さはない。
代わりに、暖かな空気が小さな部屋を満たしていた。
古びた木の机。
身体を包んでいた布団。
壁際に積まれた薪。
そして、静かに燃える暖炉。
その火を、椅子に座り、じっと見つめている一人の老人。
…………!!
「目が覚めたか」
老人が、ゆっくりとこちらを振り返る。
シワが大量に刻まれた顔。
それに、青い目。何処かの小説にでも出てきそうな老人だ。
言葉に詰まる。
えっと。
何から話せばいいんだっけ。
自己紹介?
いやいやいや、違う。
まずは挨拶だ。
「あ、あの……お、おはようございます!」
思わず背筋を伸ばす。
「そ、それと……えっと……ありがとうございました!」
老人はしばらく私を見つめ、
「ああ、そうか」
それだけ言うと、また暖炉へ視線を戻した。
……あれ。
何か、間違えたかな。
どうしよう。気まずい。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、小屋の中に響いている。
ぱち。
ぱち。
その音を数えることしかできないまま、どれくらい経っただろう。
やがて老人が、不意に口を開いた。
「お前は、誰だ」
その言葉に、私は反射的に返事をする。
「……え、あ、はい!」
私は――
私は。
「…………」
頭の中が、真っ白になる。
名前。
私は、自分の名前を知っているはずなのに。
何も、出てこない。
これ、あれだ。
くしゃみをしようとして、出なかったときみたいだ。
「……私は」
絞り出すように、声が漏れた。
「…………私は、誰ですか?」
「…….何を言っている。こっちが聞いているんだ」
ごもっともだ。
えーと、どうしよう。
一旦状況整理だ。うん。冷静が大事!
えーと、初めに、雪山で、一人で彷徨ってた気がする。
それで、神様の声が聞こえて、誰か来て、
それで….気づいたらここにいた。で、多分、あの時助けてくれたおじさんが、目の前にいる
少しは、冷静になった気がする。
だけどなぁ、状況整理も何も、進展がない。
本当に、ここどこ?
うーん、ひとまず。
生きてるしそれで良しとしよう。うん
その時、
「…..記憶喪失か」
老人が、ポツリと呟いた。
………?記憶喪失?
誰が?
この部屋には、目の前の老人で一人
あとは….私で二人目
……. え?
私のこと?
「私ですか?私、記憶喪失なんかじゃ…..」
言葉が続かない。
全く冷静じゃなかった。
自分が、雪山にいた理由がわからない。
名前も分からない。
「私、記憶喪失なんですか…..?」
「さあな。お前にしか、分からん」
…………。
このおじさん。
愛想っていうものを、どこかに置いてきたのかな。
私は話題を変えるように、自分の身体を見下ろした。
手。
足。
細い腕。
筋肉なんて、ほとんどない。
身長は……小屋にある机より、少し高いくらい。
そして、机に置いてあった鏡を見る。
顔は…..うん。悪くない。14歳ぐらいだろうか。
まだ、動きに制限がある気がする。
それだけ確認すると、今度は目の前の老人をじっと見る。
ボロボロの外套。
白い髪。
長い旅をしてきたような、大きな革袋。
「……そうだ」
私は、ぽんと手を打った。
「おじさんって、神様ですか?」
老人が、ゆっくりとこちらを見る。
その目は、
――失礼な奴だ。
――私はまだボケてない。
そう言いたげだった。
「何を言っている」
老人は、呆れたようにため息をつく。
「記憶だけでなく、頭までおかしくなったか?」
はぁ。
いや、こっちがため息をつきたい。
どうしたもんかなぁ。
どこかへ帰るにしても、帰る場所が分からない。
名前も知らない。
故郷も知らない。
そもそも、ここがどこなのかすら分からない。
……それにしても。
記憶はなくても、基本的なことはちゃんと覚えているみたいだ。
言葉も分かる。
人の顔を見て挨拶もできる。
お腹も空くし、寒ければ寒いと思う。
うん。
人間としての尊厳は、ちゃんと残ってる。
その点は、一応安心かな。
窓の外へ目を向ける。
吹雪。
真っ白。
何も見えない。
……うん。
あれは駄目だ。
今、外に出たら死ぬ。
何の根拠もないけど、直感がそう言っている。
そうなると。
しばらくは、この小屋にいるしかない。
……あれ?
そういえば。
この人、何であんな吹雪の中を歩いてたんだ?
普通に考えて、おかしくない?
……いや。
それを言ったら、私も雪山で倒れてたわけだけど。
「あのー」
恐る恐る、老人に声をかける。
「どうして、外にいたんですか?」
老人は暖炉の火を見つめたまま、短く答えた。
「お前には、関係ないことだ」
……ムッ。ちょっとくらい、教えてくれてもいいのに。
私は口を尖らせながら、黙って薪の爆ぜる音を聞いていた。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。
老人は静かに立ち上がり、壁に立て掛けてあった古びた外套を手に取った。
「さて」
外套を羽織りながら、老人は小さく呟く。
「俺は、そろそろ行く」
「え?」
思わず声が漏れた。
「行くって……どこに?」
老人は何も答えない。
私は少し考えてから、ぽんと手を打つ。
「買い物?」
老人の動きが、ぴたりと止まった。
ゆっくりと、こちらを振り返る。
「……お前」
一拍置いて。
「記憶がない割に、能天気だな」
「え?」
「普通、自分が誰かも分からん状況なら、もう少し慌てるものだ」
言われてみれば、そうかもしれない。
私は腕を組んで、少し考える。
「うーん……
慌てても、お腹空くじゃないですか」
老人は黙った。
「それに」
私は窓の外を見る。
吹雪は相変わらずだ。
「深く考えても仕方ないかなって」
「…………」
老人は、何も言わない。
ただ、少しだけ目を細めて。
「変な奴だ」
そう、小さく呟いた。
「それで、どこに行くんです?」
老人は荷物を背負いながら、短く答えた。
「知らん」
「え?」
「近くの街だ」
……知らないのに、行くんだ。
そういうものなのかな。
「雪降ってますけど…..」
「俺には、関係ない」
私は少し考えてから、一番大事なことを聞く。
「私は?」
「……知らん」
…………。
いやいや。
その返事は、おかしくない?
「私、泣きますよ?」
老人の手が止まる。
「泣くと、結構厄介ですよ?」
「…………」
「一日中、泣いてるかもしれませんよ?」
しばらくの沈黙。
やがて老人は、深いため息をついた。
「……お前」
「はい」
「嫌われるぞ」
……む。
そんなこと言われると、ちょっと傷つく。
老人は頭を掻きながら、もう一度ため息をついた。
「はぁ……もういい」
そして、ぶっきらぼうに言う。
「好きにしろ」
よし!泣き落としは成功だ!
私は勢いよく立ち上がる。
「仰せのままに!」
「……誰も命令はしていない」
「じゃあ、同行許可!」
「出してない」
「実質、出してますよね?」
「出してない」
老人は外套を羽織ると、小屋の扉へ向かって歩き出した。
私は慌ててその後を追う。
「待ってください!」
「何だ」
「街って遠いですか?」
「歩けば着く」
「お腹空きました」
「……まだ出発もしていないだろう」
それから、三時間ほど歩いただろうか。
雪は相変わらず降り続いていた。
老人は一言も喋らない。
私は何度か話しかけてみたけれど、
「……」
「……」
返事は、ほとんどなかった。
うーん。
この人、本当に人と話すの苦手なんだな。
そんなことを考えていると。
「――――、――――、――」
……あ。
まただ。
「――――――、――、――――」
風の音とは違う。
誰かが、話している。
遠くで。
すぐ近くで。
耳元で。
不思議なくらい、はっきりと。
ねえ。
やっぱり、おかしいよ。
さっきから、ずっと声が聞こえるもん。
神様の声だとしても、聞こえすぎだよ。
もうちょっと、遠慮を覚えてほしい。
老人をちらりと見る。
相変わらず、前だけを見て歩いている。
……聞こえて、ないのかな。
「あのー」
「何だ」
「何か、声とか聞こえません?」
老人は歩みを止めない。
「聞こえん」
「え、本当に?」
「ああ」
即答だった。
私は辺りを見回す。
白い雪原。
吹き荒れる風。
私と老人の足跡だけ。
「――――、――――」
ほら。
また。
……やっぱり。
この声、この人には聞こえてなさそう。
それから、更に五時間ほど歩き続けた。
……。
…………。
誰だよ。
歩けば着くって言った奴。
吹雪の中を、八時間以上歩くなんて聞いてないぞ!
足は重いし、お腹も空いた。
顔に当たる雪は冷たいし、景色はさっきから何一つ変わらない。
白。
白。
どこまでも、白!
私は前を歩く老人の背中を見つめる。
「あのー、おじさん」
「何だ」
「場所、分かってますか?」
老人は振り返りもせず、答えた。
「俺には分かる」
「え?」
「お前には、見えてないだけだ」
……?
「何がですか?」
「街の場所だ」
…………。
私は辺りを見回す。
雪。
雪。
あと雪。
街どころか、木一本見えない。
私はもう一度、老人を見る。
老人は真っ直ぐ前だけを見て歩いている。
……話が通じてない。
何を言ってるんだ、この人。
やっぱり。
ボケてるんじゃないのか?
すると、その瞬間。
「見えた」
老人が、小さく呟いた。
「え?」
「街だ」
「いやいやいや」
私は思わず声を上げる。
「どこですか!」
老人が、何も言わず前を指差す。
私は半信半疑で、その先を見る。
吹雪の向こう。
真っ白な世界の中に。
ぼんやりと、小さな灯りが揺れていた。
吹雪を抜けた先には、高い石壁がそびえ立っていた。
壁の上には見張り台。
その足元には、大きな木の門。
門の前には槍を持った男が二人、退屈そうに立っている。
どうやら、ようやく街に着いたらしい。
……長かった。
私は思わずその場に座り込みそうになる。
けれど、老人は何事もなかったように門へ向かって歩いていく。
「止まれ」
門番の一人が槍を軽く持ち上げた。
「何者だ?」
「旅人だ」
老人は短く答える。
門番は、今度は私の方へ目を向けた。
「そっちの娘もか?」
老人はちらりと私を見て、
「……さあな」
とだけ言った。
「勝手についてきただけだ」
「え?」
思わず声が漏れる。
いやいや。
それじゃ私、すごく変な人みたいじゃない?
門番も少し困ったような顔をした。
「何だそりゃ」
隣の門番が笑う。
「まぁ、怪しい奴には見えねぇか」
そう言うと、槍をどけた。
「通ってよし」
やった。
どうやら無事に入れるらしい。
その時。
「ああ、それと」
門番が真面目な顔になる。
「夜中には出歩くなよ」
「え?」
「最近、何かと物騒でな」
そう言って、門番は私を見る。
「そこの嬢ちゃんは、特にな」
私は首を傾げた。
「……?」
物騒?
すると、隣で老人が小さくため息をつく。
「忠告は聞いておけ」
「え?」
「死にたくなければな」
老人はそれだけ言うと、私を置いて街の中へ歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
慌てて、その背中を追いかけた。
門をくぐった、その瞬間。
「わぁ……」
思わず、声が漏れた。
人。
人。
人。
今まで見渡す限り真っ白だった景色が、嘘みたいだった。
通りには店が立ち並び、野菜を売る声、鍛冶屋の金槌の音、子どもたちの笑い声が飛び交っている。
焼きたてのパン。
串に刺さった肉。
大きな鍋でぐつぐつと煮込まれている、何かのスープ。
どれもこれも、ものすごく美味しそうだ。
私は老人の袖を、ちょんちょんと引っ張った。
「おじさん!」
「何だ」
「なんか買おうよ!」
老人は一瞬だけ私を見て、
「金はあるのか?」
と言った。
「うっ……」
ない。
というか、私、自分の持ち物すら知らない。
老人は、そんな私を見て小さく息を吐いた。
「宿に行くぞ」
「えー」
「話は、それからだ」
そう言うと、老人は人混みを縫うように歩き始める。
私は慌てて、その後を追いかけた。
しばらく歩くと、一軒の古びた宿屋の前で老人が足を止めた。
木の看板は少し傾き、壁には長い年月を感じる傷がいくつも刻まれている。
老人は扉に手を掛けたまま、振り返った。
「いいか」
その声は、今までより少しだけ真面目だった。
「余計なことはするなよ」
「余計なこと?」
老人は何も答えず、宿の扉を開けた。
ぎぃ、と古びた蝶番が軋む。
……。
…………。
うわぁ。
先ほどまでの賑やかな街並みとは、まるで別世界だった。
壁紙はところどころ剥がれ落ち、天井には大きな蜘蛛の巣が張っている。
よく見ると、その真ん中には、なかなか立派な蜘蛛が鎮座していた。
さらに、屋根には穴まで開いている。
……あれ、雪とか入ってこない?
私は老人の袖を、そっと引っ張った。
「ぁ、ぁのー、おじさん?
ここに泊まるんですか…?」
「……..何か文句でも?」
何も言えない。金払って貰ってる立場だし。
その後、老人が金を払って、部屋に案内された。
部屋は、二段ベットが入ってる、小さな部屋だ。
お気持ち程度に置いてある枕に掛け布団。
もっとも、汚くてとても使おうとは思えないな。
「….さて、好きにしろ」
「……?」
「俺が送るのは、ここまでだ。
明日からは好きにしろ。今日の宿代は払ってやる」
「?それは、どうも…….?」
何言ってるんだ?
…….もしかして、お別れ?ここで?
明日?早くない?
「いや、ちょっと!おじさん!」
返事する事なく、せっせと部屋の外へ、そして宿の外へ行ってしまった。
急いで、追いかけないと…….
急いで宿を出て、老人を追いかけ始めた。
慌てて部屋を飛び出し、老人の背中を追った。
宿を出て、人通りの少ない通りへ駆け出した、その瞬間だった。
ガシッ。
突然、後ろから腕を掴まれる。
「え……?」
驚く間もなく、そのまま細い路地へ引きずり込まれた。
「……っ!」
声を上げようとした途端、口元を押さえつけられる。
「まったく、お嬢ちゃん。一人でふらふら歩いちゃ危ないじゃないか」
低い笑い声。
顔を上げると、目の前には男が三人立っていた。
一人は路地の出口を塞ぎ、もう一人は短剣をちらつかせながら、値踏みするようにこちらを見ている。
背中を、冷たいものがゆっくりと這い上がった。
「どうする?」
「長居は無用だ。さっさと連れて行くぞ」
男たちは小さく笑い合い、それかr•••••
そして、その路地の外では――。
老人は一度も振り返ることなく、夜の街を歩いていた。
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旅の始まりはいつだったろう。
もう、何百年も前のことかもしれない。
俺は死なない。
いや、死ねない。
ある人間から、呪いを受けたからだ。
強い呪いだった。解呪することは出来なかった。
自ら命を絶つことは許されず、どれほど深い傷を負っても、体は勝手に癒えていく。
病に倒れても長くは続かない。
ただ、不老というわけではなかった。
体は確かに老いている。
足は思うように動かず、遠くを歩けば息が上がる。
力も衰え、昔なら容易く持ち上げられた荷物でさえ重く感じる。
それでも死ねない。
老いていくだけの体を抱えながら、何百年もの時を生き続けてきた。
ずっと一人で細々と生きてきた。
ただ――あの日、あの噂を聞くまでは。
誰が口にしたのかは覚えていない。
酒場だったか、市場だったか。
それすら曖昧だ。
けれど、その言葉だけは今も耳に残っている。
――人の思いは消えない。
――世界のどこかに残り続ける。
酷い話だと思った。
未練を捨てられない愚か者たちを惑わせるためだけにあるような言葉だった。
忘れてしまえば楽なのに。
諦めてしまえば終わるのに。
そんなものを信じるから、人は苦しむ。
……そう思っていた。
それなのに。
気が付けば俺は、その噂を追って旅に出ていた。
何百年も閉ざしていたはずの過去を掘り返してまで。
知りたいことがあった。
人の思いは消えないのならば。
君の思いも、どこかに残っているのだろうか。
もし残っているのなら。
俺は、それを聞かなければならない。
何百年かけてでも。




