プロローグ 噂話
これは、遠い遠い、遥か昔。
ある男たちの集まる酒場で、語られた一つの噂話。
酒場の中は昼間だというのに薄暗く、煤けた梁には長年の煙が染み付き、壁には折れた剣や獣の角が無造作に飾られていた。
暖炉では薪がぱちぱちと音を立て、焼いた肉の匂いと零れた酒の匂いが混ざり合い、旅人や傭兵、商人たちが肩を寄せ合って酒を煽っている。
誰かが博打の勝ちを自慢し、誰かが腕相撲で負けた仲間を笑い、店主は大樽から酒を注ぎながら怒鳴っていた。
「壊すなら金を払えよ、この馬鹿ども!」
だが、そんな声すら掻き消すほど、酒場は笑い声と怒号で満ちていた。
その喧騒の中、一人の名も知らぬ旅人が酒瓶を片手に立ち上がり、卓へ身を乗り出すようにして言った。
「強い想いは消えない。
世界のどこかに残り続ける。
それを――『残響』と呼ぶのだ! ってな!」
そう言うと、旅人は豪快に笑った。
「ギャハハハハ!」
酒場にいた飲んだくれたちも、それにつられて腹を抱えて笑い出す。
「はっ、何だそりゃ」
「酔っ払いの与太話だろうが」
「そんなもんがあるなら、とっくに誰かが見つけてるさ」
幻。
ただの噂話。
迷信。
誰も彼もが、そう言って切り捨てた。
その場で聞いていた者たちも、翌朝にはゲロと共にその話を綺麗さっぱり忘れてしまう。
所詮は、酒の席で語られる与太話。
誰一人として、本気にする者などいなかった。
――ただ、一人を除いて。
それから時が流れた。
ある王国が滅び、新たな国が生まれ、人が死に、人が生まれる。
何百、何千、何万という繰り返し。
そして、いつしか最初にその噂が語られた酒場も、建て替えられ、店主が代わり、客の顔ぶれもすっかり変わっていた。
そんなある夜。
相変わらず酒場は酔っ払いで賑わい、木の卓には酒が零れ、誰かがくだらない話で笑っていた。
「なぁ、知ってるか?」
酒場の隅で、一人の男が声を潜める。
「ボロボロの外套を着た旅人がいるらしい」
「へぇ?」
「北の雪原にもいたし、南の砂漠でも見たって話だ。海を渡った島国にも現れたらしい」
「同じ奴がそんなところまで行けるかよ」
「それがよ、皆同じことを言うんだ。白髪の老人が、彷徨ってるって」
「……で、その旅人がどうした?」
男は酒を一口飲み、少しだけ口元を緩めた。
「昔話みたいな噂を、ずっと追いかけてるらしい」
「噂?」
「ああ。
『残響』ってやつをな」
酒場には、しばらく静寂が流れた。
暖炉の薪が、小さく弾ける音だけが聞こえる。
やがて。
「……何だそりゃ」
誰かがそう呟くと、酒場は再び笑い声に包まれた。
「いやいやいや、笑い事じゃねぇよ」
今度は別の男が口を開く。
「俺は見たことがある。あの旅人を」
「本当か?」
「ああ。三年前、北の雪原でな」
「……三年前?」
「その前は親父が見たらしい。四十年くらい前だったか」
さっきまで騒がしかった酒場が、不意に静まり返る。
「待てよ……同じ奴なのか?」
「ああ。ボロボロの外套を着て、古い革袋を肩に掛けた白髪の老人だった」
「そんな旅人、どこにでもいるだろ」
「いや、一つだけ特徴があったんだ」
「何だ?」
「古いネックレスみたいなものを首から下げてた」
「ネックレス?」
「ああ。金でも銀でもない。見たこともない細工だった」
「……それだけか?」
「それだけだ。
でも、不思議と目が離せなかった」
「ははっ、何だそれ!」
「やっぱり酔っ払いの話じゃねぇか!」
「なぁ?」
「何だと! このやろう!」
誰かが笑い、誰かが怒鳴り、また誰かが酒を零す。
結局、その夜も酒場はいつもの喧騒へと戻っていった。
その頃••••••
北方の山岳地帯に一人の老人が歩いていた。
いったい、何の目的があるのか。
知るものは、この老人以外にはいない。
何年、何十年と歩いてきた。
だだの日常の風景。
そんな時だった。
白しかないはずの雪原に、何かが倒れているのが見えた。
老人は足を止める。
吹雪の向こうをじっと見つめる。
雪に埋もれた岩か。
倒れた木か。
いや、違う。
そこには、人影があった。
老人はゆっくりと近づいていく。
雪を踏みしめる音だけが、静かな世界に響いていた。
やがて、その姿がはっきりと見える。
銀色の髪。
まだ幼さの残る、小柄な少女だった。
雪に半ば埋もれるように倒れている。
荷物もない。
足跡もない。
まるで、最初からそこに置かれていたかのようだった。
老人は黙って少女を見下ろす。
こんな場所に人がいる理由が分からない。
旅人なら仲間がいるはずだ。
だが、辺りを見回しても、吹雪の向こうには白い世界が広がるだけだった。
老人はゆっくりとしゃがみ込む。
手袋を外し、そっと少女の首筋へ指を当てた。
冷たい。
だが。
微かに。
本当に微かに、その身体には命の鼓動が残っていた。
老人は、もう一度だけ空を見上げる。
灰色の空から、雪は静かに降り続いていた。
しばらくの沈黙のあと、小さく息を吐く。
「……面倒だな」
誰に向けた言葉でもなかった。
老人は少女を抱き上げる。
驚くほど軽かった。
腕の中から伝わるかすかな温もりを確かめながら、老人は来た道を引き返し始める。
吹雪はなおも、静かに世界を白く染め続けていた。




