第二話 殿下、その台詞は台本にございません
「エステル嬢」
呼ばれて、夜会に引き戻された。
ゴードン・モーゼルが前へ出ている。
リリアの父で、四十代半ば。商人としては大成した男だけれど、貴族の服を着ると肩だけがどうにも落ち着かない。爵位を買って十年たつのに、いまだに商談へ行くような顔で夜会に来る。
今夜に限っては、それが助かった。父親らしく怒るより、客先から娘を引き取りに来た顔のほうが、この人には似合う。
「娘への行い、聞かせていただきました」
ゴードンは私を見た。予定の台詞で、私は答えない。
それから彼は、ジェラルドへ向き直った。
「殿下。大変申し上げにくいことではございますが」
そこで一度、息を入れた。うちの応接間で練習したときより、上手い。
「娘との婚約を、辞退させていただきたく存じます」
広間がざわついた。ジェラルドの顔にも、薄い驚きが浮かぶ。殿下の台本に、この先は書いていない。
「理由を聞こう」
「殿下を責めるつもりは、毛頭ございません。ただ、娘には王宮で生きていけるだけの強さがございません。今回のことで、よく分かりました」
リリアが、父を見た。言葉は練習どおりなのに、顔が違っていた。ゴードンは、演技で娘を見ていなかった。
たぶん、半分くらいは本音なのだろう。
そういうのは困る。本物を混ぜられると、芝居は急に扱いづらくなる。
「君への嫌がらせを止められなかった責任は、私にもある」
ジェラルドがリリアへ向き直り、気遣うように肩へ手を添えた。
ここから先は、殿下の台本にはない場面だ。それなのに、迷いがなかった。添えたほうが絵になるし、この人はそれが分かる人だった。
(台本にない場面のはずなのに、ずいぶん滑らかだ)
「父君の気持ちは理解する。……分かった。リリア嬢のためなら、受け入れよう」
広間の空気が、少しだけ緩んだ。
殿下が受け入れた時点で、婚約辞退はもう成った。あとはハロルドが両家の意思を確かめて、記録を閉じるだけだ。
私は扇を閉じ、頭のなかで数字を動かした。
七百二十から、五十。六百七十。悪くない。
「ハロルド」
「はい」
「記録を」
「両家のご意思を、確認いたします」
羽根ペンが持ち上がった、その瞬間だった。
「その前に、一つ」
ジェラルドが言った。台本に、その台詞はない。
閉じかけた扇を、私は途中で止めた。ほんの一拍のことで、たぶん私以外は誰も気づかなかった。
「モーゼル卿。婚約を辞退したい理由は、本当にそれだけか」
「……何を」
「なるほど」
ジェラルドは、わずかに笑った。
「だから、王室銀器まで持ち逃げする準備をしていたのか」
リリアの肩が跳ねた。今度は演技ではない。
ゴードンが口を開いたけれど、音は出なかった。
大扉が開き、近衛が二人がかりで木箱を一つ運び込んでくる。
小ぶりの衣装箱ほどの、どこにでもある木箱で、蓋の継ぎ目には白い札が一枚、帯のように貼られていた。
(そこまで用意してるの)
ちょっと感心した。感心している場合ではないけれど、準備のいい相手は嫌いではない。そういう相手からは、料金を取りやすい。
「モーゼル商会の倉庫から押さえたものだ。中身は、宝物庫から消えた王室銀器」
「そんな……」
リリアの呟きは小さすぎて、近くにいた私くらいにしか聞こえなかった。
「殿下、そのような箱、私は存じません」
「知らぬ箱が、お前の倉庫にあったと?」
「本当に――」
「私自身が確認している」
ジェラルドの声が、ゴードンの言葉に重なった。
広間が静かになった。
「モーゼルの倉庫でな。王室銀器、十二本だ」
強い、と思った。私は内心で舌を打った。
商会が盗んだらしい、ではない。近衛が見た、でもない。王太子本人が、この目で見た。
百二十人の前でそう言えば、だいたいの人間はそれで十分だと思う。
そこで、ようやく分かった。
この人は、私たちが台本の外へ出ることまで読んでいた。
ゴードン・モーゼルと、王宮記録局の書記官。私一人を断罪するだけなら、どちらも要らない。
私が揃えた顔ぶれを見て、この人はその先まで当てたのだ。
悪役令嬢代行の舞台へ勝手に上がって、人の照明まで使うとは、いい度胸だ。
(追加料金を取りたい。取れるだろうか)
その前に、生き残らないといけない。
「ハロルド」
「記録しております」
「よろしい」
ジェラルドはゴードンへ視線を戻した。
「記録を閉じるな。この件を先に確かめる。事実なら、モーゼル家は王家との縁組から逃れるために、王室の財産を持ち出したことになる」
やっぱり、そう来る。広間のあちこちで、ささやきが育ちはじめていた。最初から商会のための縁組だったのね、とか、だから成り上がりは、とか。
「違います!」
リリアが、初めて声を上げた。
広間じゅうの視線が、彼女へ移る。
まずい。今ここで泣きながら父をかばえば、その台詞は全部、台本の外になる。
「リリア」
私は名前だけ呼んだ。リリアが止まった。止まれる子でよかった。
ジェラルドが、ゆっくりとこちらを見た。笑っていた。
「何だ、エステル。君も何か言いたそうだな」
「いいえ」
「遠慮するな。さっきまで、ずいぶん弁が立っていたじゃないか」
言えば楽になる。
葡萄酒も、手紙も、幼い頃の約束も、全部こちらで作った芝居です、と。
私の悪評は、いくらか剥がれる。たぶん二割。三割は無理だ。
その代わり、リリアたちは王太子を百二十人の前で騙した家になる。
婚約だけ逃げても、そのあとがない。
(高いわね)
「どうした、エステル。反論は?」
私は扇を持ち直した。
「いたしません」
少し離れたところで、誰かが笑った。ほら、認めた、という声もした。
ちょうどいい。私でもそう思う。そう見えるように、三週間働いたのだから。
隣で、リリアが息を吸った。
泣くのかと思った。違った。
「エステル様」
声は震えていたけれど、ちゃんと聞こえた。
「大丈夫かどうかと、やるかどうかは、別なんでしょう?」
目が赤かった。それでも、逸らさなかった。
困った。自分の台詞は、他人から返されると、だいたい腹が立つ。
「……そうでしたね」
私は、ジェラルドへ向き直った。
「殿下」
「何だ」
「その件は、台本にございましたか」
ジェラルドの顔から、笑みがほんの少しだけ消えた。
「何?」
「王室銀器の件です」
ざわめきが戻ってきた。台本、という言葉の意味を、ほとんどの客が取りかねている。
私は、それ以上の説明をしなかった。
「これは芝居ではない。事実だ」
ハロルドのペンが、一瞬だけ止まった。
誰も何も言わなかった。ただ、王太子の口から、芝居、という言葉が出たことだけが、広間に残った。
「では、殿下ご自身のお言葉ですね」
「当然だ」
ハロルドの羽根ペンが動く。その音が、やけに大きく聞こえた。
「先ほど、ご自身で確認されたと」
「ああ」
「十二本とも、揃っていたと」
「揃ってはいない」
すぐに訂正が来た。手紙の通数を正したときと、同じ速さだった。
「一本は、柄の青石が外れていた」
広間が、しんとした。ほとんどの客は、王太子がそこまで細かく見ていたことに感心している顔だった。近くの老伯爵が、さすがは殿下、と小さくうなずいている。
私は何も言わず、箱を見た。
まだ開いていない。蓋と本体をまたぐように細長い札が貼られていて、紙の端に、赤い印が一つ。
隣で、リリアが息を呑んだ。
「その札……」
誰も、彼女を見ていなかった。
リリアが一歩、前へ出た。台本では、最後まで震えているだけの役だった。
「その札、私が貼りました」




