第一話 断罪されるのも仕事です
「エステル・ヴァレンティア。君との婚約など、最初から存在しない」
王太子ジェラルドの声が大広間の天井まで届いた瞬間、百二十人ぶんの視線がいっせいに私へ刺さった。
ざっと数えて、同情が三人、面白がっているのが九十人ほどで、残りはたぶん、明日の茶会でこの話を誰に一番に聞かせるかを考えている。
伯爵夫人が一人、もう隣の奥様へ顔を寄せていた。まだ始まったばかりなのだから、せめて最後まで観てから喋ってほしい。
(客入りは悪くない)
私は扇の陰で小さく息を吐き、それから、吐いた息の分だけ肩を落としてみせた。
今夜のために選んだ深紅のドレスは、胸元が少し開きすぎていて、裾が少し長すぎて、首飾りの石が少し大きすぎる。
品のない女に見えるぎりぎりの線を探して、古着屋を三軒回った。悪女には悪女の制服がある。
――ここまでは、契約どおり。
「殿下……何を、おっしゃっているのですか」
声を震わせる。今日は朝から喉の調子がよかった。泣き出す寸前の女というのは、少し息を混ぜるとそれらしく聞こえるけれど、混ぜすぎると舞台女優になってしまうので、加減がいる。
私は胸元へ手を置いた。
「幼い頃、あれほど言ってくださったではありませんか。大人になったら、必ず迎えに行くと」
「子供の戯言だ」
ジェラルドは眉一つ動かさなかった。
「まして君は、その程度の言葉を盾に、私の婚約者へ何をした」
よく通る声だった。王太子という肩書きがなくても、人前で喋る仕事にはきっと向いている。いちいち腹が立つくらいには。
「何を、とは」
「しらを切るのか」
彼が指を上げると、壁際の小さな書記机で、老書記官が無言のまま羽根ペンを紙へ落とした。
王宮記録局のハロルド。勤続三十七年で、笑ったところを見た者はいないと聞く。たぶん、生まれたときからあの顔だったのだと思う。
「リリア・モーゼル嬢のドレスへ、葡萄酒をかけた」
「偶然です」
「彼女を侮辱する手紙を送った」
「存じません」
「王宮の大階段で行く手を塞ぎ、手すりから手を離させた」
「人聞きが悪うございます」
ざわ、と広間が揺れた。手すりのくだりで、年配の婦人が二人ほど扇を取り落としかけている。
(落ちてはいない。誰も、どこからも)
それでも、聞こえ方だけは最悪になるように台詞を組んだのは私だ。
もう少し嫌われておく。半端に同情される悪役ほど使いにくいものはない。余計な親切心で、事情を嗅ぎ回る人間まで出てくる。
視線だけを横へ滑らせると、ジェラルドの少し後ろで、淡い青のドレスを着たリリア・モーゼルが、両手を腹の前で固く組んでいた。
目が合いそうになって、逸れた。
あれは演技ではない。あの子は芝居が下手なので、最初から芝居をさせないことにしてある。
昨日も三回訊かれた。本当に大丈夫なんですか、と。
私も三回、同じ答えを返した。大丈夫かどうかと、やるかどうかは別です。
我ながら、ずいぶん役に立たない励ましだったと思う。
「まだございますか」
「ある。匿名で送られた中傷の手紙は四通。君の筆跡と一致している」
「三通では?」
わざとだった。悪女は、最後まで往生際が悪いほうがいい。
ジェラルドの眉が、ほんの少し動いた。
「四通だ。一通目は七日の朝、二通目は九日の夕刻、三通目が十二日、最後が十五日。確認している」
「あら。そうでしたか」
扇で口元を隠す。
(ちゃんと数えるのよね、この人)
台本の読み合わせのときからそうだった。
ジェラルドは台詞の語尾より先に、日付の食い違いを直した。帳簿なら歓迎したい種類の几帳面さだけれど、人間が相手だと、ただ面倒くさい。
「エステル。君はリリア嬢に嫉妬し、私との間に存在もしない約束を吹聴した。彼女を王宮から追い出せば、自分が代わりになれると考えた」
「……違います」
「では、何が違う」
「私はただ」
そこで言葉を切り、視線を落として、扇を握る指に少しだけ力を入れる。
続きは言わない。言わないほうが、客席が勝手に補ってくれる。
恋に狂った女というのは便利なもので、理由を説明しなくても、周りが全部説明してくれる。
案の定、遠くで誰かが小声で言った。
「見苦しい……」
ありがとうございます。評判は、後でまとめていただきます。
悪役令嬢代行。看板を出しているわけではない。そんなものを玄関に掲げたら、翌朝には父が寝込む。
貴族同士の結婚というものは、本人二人だけの話では終わらない。
家。
領地。
商売。
持参金。
昔の恩と、昔の恨み。
これでもかというくらい他人の都合がくっついていて、やめたいと思ったときには、たいていもう遅い。
正直に、あなたの息子とは結婚したくありません、などと言えば家同士が揉めるし、揉めた面子は、十年かけて相手の家に返される。
だったら、悪い女を一人用意すればいい。
嫉妬深くて、性格が悪くて、できれば家格はそこそこ高い女を。
婚約が壊れた原因をその女一人に押しつけてしまえば、両家は互いに頭を下げ合い、悪いのはあの女だということで、翌年には何事もなかったように取引を続ける。
不思議なもので、人は込み入った事情より、分かりやすい悪女のほうが好きだ。
私は、その分かりやすい悪女を売っている。
料金は内容による。悪口だけなら安く、夜会での公開断罪は高い。飲み物をかけられる側に回るなら追加で、頬を叩かれるならさらに上乗せになる。
嫌われるのは料金内。殴られるのは別料金。
これだけは、どれほど積まれても譲らない。
始めたのは三年前、父が港の倉庫株に手を出して、家ごと沈みかけた冬だった。
最初の依頼人は学院の先輩で、私は彼女の婚約者に色目を使う下品な女を一晩だけ演じ、翌朝、先輩の家から金貨二十枚が届いた。
そのとき初めて知った。悪評は、売れる。
あれから私が引き受けたものを並べると、こうなる。
夜会で伯爵令嬢にワインを浴びせた女。
他人の婚約者を舞踏会で三曲続けて独占した女。
侍女を泣かせて辞めさせた女。
ワインは葡萄の汁で、婚約者は依頼人の兄で、侍女は退職金をもらって郷里の宿屋の女将になった。
誰も傷ついていない。傷がついたのは、ヴァレンティア伯爵家の長女の評判だけで、評判では借金は一枚も減らない。
我が家の借金は、今、金貨七百二十枚。
最初は九百六十枚だったのだから、これでも減ったほうだ。
妹のミーナが十五になる前には消したい。できれば、あの子の嫁ぎ先を借金取りに決められてしまう前に。
世の中には、愛より先に支払期限が来る。恋愛小説はそのあたりを少し省きすぎだと思う。
リリア・モーゼルが一人でうちを訪ねてきたのは、三週間前だった。
玄関へ通された時点で顔色が悪く、あれからずっと悪いままだ。
「王太子殿下との婚約を、やめたいんです」
雨漏りのする応接間の椅子に座るなり、そう言われた。
お茶はまだ来ていなかった。
「理由を伺っても?」
「殿下が欲しいのは、私ではなくて、商会なんです」
「殿下が?」
リリアはうなずいた。その動きまで小さかった。
「父の商会は、北の穀物も、南の塩も運んでいます。王家の荷も、一部。婚約してから、王太子府の方が帳簿を見たがるようになって」
「お見せになったんですか」
「父が断りました」
「賢明です」
「それから、急に昔の税の記録を調べられたり、倉庫の検査が増えたりして」
話しながら、指先がカップの取っ手を探した。
まだお茶は来ていない。本人も途中で気づいて、手を膝へ戻した。
その右の人差し指の腹に、朱肉の色が薄く残っていた。
「すみません。ここへ来る前まで、倉庫で判子を押していて」
「お嬢様が、ですか」
「預かり荷は、毎日来るので」
商家の娘というのは、そういうものらしい。
私は改めて彼女の顔を見た。
美人だった。ただし、宮廷向きではない。褒め言葉ではなく。
怖いときに怖い顔をする人間は、ああいう場所では長生きしづらいし、ジェラルドなら三日で読める。だから、読まれたのだろう。
「婚約をお断りになれば、お父様に何かされる」
「……たぶん」
「もう、されていますね」
「……はい」
私は料金表を一枚、卓に置いた。
リリアはそれを、驚くほど丁寧に読んだ。上から下まで指でなぞり、最後の一行でぴたりと止まる。
「想定外の対応は、追加料金」
「はい」
「これは、どのくらいの想定外までですか」
「起きてみないと分かりません」
リリアは少し考えてから、うなずいた。
商人の娘は、こういう行を読み飛ばさない。
「悪役が要ります。私が殿下に横恋慕していることにしましょう」
「え」
「昔、結婚の約束をしたと言いふらして、あなたをいびって、夜会で露見して、殿下が私を切り捨てる。その場で、お父様が婚約の辞退を申し出る」
「殿下にも、台本を?」
「お渡しするのは、私の断罪までです」
「婚約辞退のことは」
「書きません」
リリアが顔を上げた。
「書けば、断られます」
「では……」
「殿下には、横恋慕の悪女から婚約者を守った王太子になっていただきます。その直後に、お父様から辞退を申し出る」
「受けてくださるでしょうか」
「百二十人の前で、婚約者の父親に頭を下げられて、それでも嫌だと言える方なら」
そこで一度、リリアを見た。
「最初から、この方法は使いません」
当日は、王宮記録局の書記官にも立ち会ってもらう。殿下が人前で辞退を受け入れた時点で、婚約は解ける。書記官はそれを確かめて記録を閉じ、閉じた記録は、あとから誰にも書き換えられない。
そう説明すると、リリアの喉が、小さく動いた。
「ひとつだけ、覚えておいてください。台本の外で言ったことは、その人のものです」
「その人の……」
「芝居ではなくなる、ということです」
念のため、その場で一度だけ泣く練習をしてもらった。
リリアは目を閉じ、眉を寄せ、唇を噛み、それから、ものすごく真剣な顔で私を見た。
「……出ません」
「分かりました。泣かなくて結構です。震えていてください」
「それなら、できると思います」
本当に、できそうな顔だった。
「……あの。本当に、大丈夫なんですか」
「大丈夫かどうかと、やるかどうかは別です」
初対面の依頼人に言う台詞ではなかった。
リリアは困った顔をした。三週間たった今も、だいたい同じ顔をしている。
私の断罪までを書いた台本は、その週のうちに王太子府へ届けた。
断られるか、三日は待たされるだろうと思っていたら、翌朝には読み合わせの日取りが返ってきた。
(ずいぶん、聞き分けのいい王太子だ)
そう思ったことを、私は今夜まで忘れていた。




