第三話 嫌われるのは料金内です
今度は、全員が見た。リリアは一度だけ口を閉じた。
「半年前に、荷抜きがあって……それから、貼るようにしたんです。蓋をまたいで」
声が裏返りかけて、リリアは一度、唾を飲んだ。
「開けたら、破れます」
朱肉の色の残る指が、札の隅の小さな印を指した。
「その印、私のです」
ジェラルドの眉が寄った。ハロルドが書記机を離れ、箱の前で腰をかがめた。老眼鏡を押し上げ、札の文字を一字ずつ目で追っていく。
「一時預かり。持込。差出人非公開。搬入、二日前の午後。開封時に破棄のこと」
顔を上げないまま、続けた。
「札は、つながっております」
誰も喋らなかった。広間のあちこちで、誰かが指を折って何かを数えはじめる気配だけがした。
ジェラルドが、箱を見た。初めてだった。この人はずっと、箱ではなく、私たちのほうを見ていた。
「……倉庫へ運ぶ前に、確かめたのだ」
早かった。訂正としては。リリアが、首を横に振った。
「うちが運んだ荷では、ありません」
そこまで言って、唇を噛む。
「預かった荷です」
私はジェラルドを見た。今度は、笑っていなかった。
声を、少しだけ落とす。
「殿下。その台詞も、台本にはございません」
ハロルドの羽根ペンが止まった。
「記録しております」
「何をだ」
ジェラルドが眉を寄せると、ハロルドは初めて、真正面から王太子を見た。
「殿下は先ほど、この箱をモーゼル商会の倉庫で確認した、と仰せになりました」
「ああ」
「その後、倉庫へ運ぶ前に確認した、と訂正されました」
ジェラルドの口が閉じた。
ハロルドは箱の札へ目を落とした。
「そしてこの荷は、モーゼル商会が運んだものではございません。二日前、外から持ち込まれた預かり荷です」
広間のどこかで、誰かが息を呑んだ。今度のざわめきは、さっきまでと向きが違っていた。
「では殿下は、この札が貼られる前の中身を、ご存じだったことになります」
ジェラルドの顔から、最後に残っていた余裕が消えた。
「違う。それは――」
「何が違うのでしょう」
私は訊いた。ジェラルドがこちらを見た。
「十二本だったことですか」
答えない。
「青石が外れていたことですか」
答えない。
「それとも」
一拍、置いた。
「モーゼル商会の倉庫で見た、という最初のお言葉ですか」
誰も笑わなかった。
さっきまで私を見ていた百二十人の目が、今は一つ残らず王太子へ向いていた。
「ハロルド」
ジェラルドの声が低くなった。
「記録を止めろ」
「できません」
即答だった。たぶん、今夜いちばん速かった。
「これは、王宮記録局の記録です」
ハロルドは新しい紙を一枚引き寄せた。
「モーゼル家による王室銀器持ち出しの告発については、根拠に重大な疑義ありとして、保留いたします」
ジェラルドが一歩、書記机へ近づいた。
近衛は、動かなかった。それが、いちばん分かりやすかった。
「あわせて、殿下が、札の貼られる前の荷の中身をご存じだった件について、王太子府ならびに宝物庫の記録の照合を要請いたします。箱の開封は、調査官の立ち会いのもとで」
「その記録を、陛下へ上げるつもりか」
ハロルドはペンを置いた。
「そのための記録でございます」
広間のどこかで、誰かが吹き出した。
一人だけだった。けれど、それで十分だった。さっきまで、私へ向けられていた種類の笑いだった。
ジェラルドは、もう何も言わなかった。言えば、また記録される。そこまで分かった顔をしていた。
気の利いた捨て台詞を期待した客もいたかもしれないけれど、残念ながら、人生はそこまで脚本家に親切ではない。
私は扇を閉じた。ようやく、少しだけ気分がよかった。
「婚約辞退につきましては」
ハロルドが、さっき止めた最後の欄へペンを下ろした。
「先ほどの殿下のご受諾をもって、両家の合意を確認しております」
ジェラルドが顔を上げた。
「待て」
「記録を閉じます」
ペン先が最後の線を引き、乾いた音を立てて帳面が閉じられた。
今度こそ、本当に終わった。
リリアがその場に座り込み、両手で顔を覆った。
あれほど練習しても出なかった涙が、指のあいだから落ちていた。
その夜のうちに、王太子府と宝物庫へ調査が入った。
モーゼル商会の輸送権を王家へ移すための草案が見つかり、宝物庫の搬出記録にも不自然な空白があったため、ジェラルドは調査が終わるまで謹慎を命じられた。
調査官の立ち会いで箱が開けられると、銀器の下、箱の底から、青い石が一つ出てきたそうだ。
「はい。ここからは、追加料金です」
翌日の昼、モーゼル邸の応接間で、私は言った。
昨夜の大広間よりずっと小さな部屋なのに、リリアはまだ落ち着かないらしく、膝の上で指を組んだりほどいたりしている。
「追加……」
「横恋慕役と、公開断罪。ここまでは契約どおり、金貨五十枚です」
指を一本立てる。
「予定外の横領疑惑」
二本目。
「殿下ご本人からの聞き取りまでつきましたので、追加で二十枚」
「聞き取り……」
「質問しました」
「はい」
「答えてくださいました」
「……はい」
「聞き取りです」
リリアは何か言いかけて、やめた。賢明だ。
隣でゴードンが、笑うべきか迷った顔をして、結局笑いながら財布を開いた。
「ひとつ、伺っても」
「どうぞ」
「どこで、お分かりになったのです。あの箱のからくりが」
「分かっていたわけではありません」
ゴードンが瞬きをした。
「では」
「伺っただけです」
ゴードンは、それ以上は訊かずに金貨を積んだ。
七十枚。持つと、ちゃんと重い。人の評判よりずっと扱いやすい重さだった。
私は一枚ずつ数えて袋へ入れ、最後の一枚だけを抜いて、リリアの前に置いた。
「これは?」
「お釣りです」
「……お釣りの出る払い方は、していません」
私は袋の口を閉じ、椅子から立った。
「では、何かの間違いでしょう」
「エステル様」
呼ばれたけれど、振り返らなかった。
「ありがとうございました」
少し考えた。気の利いた返事は、出てこなかった。
「次は、もう少し安い依頼にしてください」
それだけ言って、部屋を出た。
翌朝の社交紙は、ずいぶん売れたらしい。
ミーナが朝食のパンより先に買ってきて、台所の卓に広げた。
「姉さま。また増えた」
何が、とは訊かなかった。一面の見出しは、王太子殿下、王室財産流出の疑いにつき謹慎。
その少し下に、稀代の悪女エステル・ヴァレンティア、再び王宮を騒がせる。
名前の大きさが、ほとんど同じだった。
昨夜あれだけ広間に響いた、台本、という言葉は、どこにもなかった。
代わりに大きく載っていたのは、王太子府から見つかった輸送権移管の草案だ。
百二十人も聞いていたのに。分かりにくい話は、紙面ではだいたい負ける。
「王太子と同格ね」
「嬉しくない」
「そう?」
ミーナはパンをちぎりながら、記事の端を指でつついた。
「訂正してもらわないの?」
「何を」
「姉さま、リリアさんのこと、いじめてないんでしょう」
「いじめたわよ」
「仕事で」
「世間は、そこまで細かく読まないもの」
私は家計簿を開いた。七百二十、と書かれた数字に線を一本引き、その下に、今回の分を差し引いた数字を書き込む。
残債 金貨六百五十一枚
少しだけ軽くなった。笑えるのは、まだずっと先だけれど。
「でも、やってないって言えばいいじゃない」
「私がやってないことにしたら、リリアの辞退が嘘になるでしょう」
「……ふうん」
ミーナは納得したのかしていないのか分からない顔で、パンを口に入れた。十二歳は、そのくらいでいい。
それから家計簿を覗き込み、指で数字をなぞった。
「……一枚少なくない?」
「必要経費」
「何に使ったの」
「忘れた」
「姉さま、そういうの一番嫌いじゃない」
「今日は嫌いじゃない日だったの」
ミーナは、変なの、と言った。否定はしなかった。
玄関の扉が叩かれたのは、そのときだった。
朝から客。嫌な予感しかしないけれど、金の匂いもする。どちらかといえば、そちらを優先したい。
ミーナが扉を開けると、上等な外套を着た初老の男が立っていた。
外套の留め金に、公爵家の紋が入っていた。
「悪役令嬢代行というのは、こちらでしょうか」
私は家計簿を閉じた。
「ご用件を」
男は帽子を胸に当て、深く頭を下げた。
「娘を、悪役令嬢にしてください」
ミーナが、手にしていたパンを落とした。
私は椅子に座り直し、向かいの席を勧めた。
「まず、ご予算を伺います」




