第9話 手が覚えているポケット
キヨの右手が、上着の腰を滑った。
そこにあるはずのポケットを探し、何もつかめないまま止まる。
これで3回目だった。
「撮影、止めようか」
直人が尋ねると、キヨは首を振った。
「服が悪いんでね」
新しい上着にもポケットはある。
ただ、口は古い上着より手のひら1つ分高く、脇腹に縦向きについていた。
キヨはその場所を確かめ、小さな飴の袋を取り出した。
「おれの手が、前のポケットを覚えてるだけだ」
紫色の上着なら、右の腰に大きなポケットがあった。
目で確かめなくても、手を下ろせば、いつも同じところに口がある。
新しい上着を着て山へ入り、まだ40分ほどだった。
*
撮影の数日前、メーカーとの条件がまとまった。
直人が示した契約条件と、
キヨが台本どおりの感想を話さないことを、メーカーは受け入れた。
広告と表示して直人のアカウントへ3本投稿し、
メーカーも自社のサイトやSNSで使う。
再編集した場合は、直人たちが公開前に確認する。
『実際に山で着用したうえで、
ご本人が感じた長所をお話しいただければ問題ございません』
用意されていた台詞は、企画書から削除された。
会社の副業承認も下りた。本業に支障を出さず、
会社の情報や機材、勤務時間は使わないという条件だった。
メーカーから送られてきた上着は、深い緑色をしていた。
次の週末、直人は美咲と灯を連れて釜野へ戻った。
土曜日の朝、上着の入った箱を持ってキヨの家へ行った。
美咲が小さな化粧ポーチを取り出すと、キヨは少し身構えた。
「本当にするのか」
「約束しましたから。薄くするだけです」
美咲はキヨの肌を整え、最後に薄く口紅を引いた。
「キヨばあ、かわいい」
灯が言うと、キヨは鏡を見ながら口元を少し緩めた。
「そこは撮らなくていいぞ」
直人は笑いながら、上着を箱から取り出した。
値札には、税込み12,800円と書かれている。
キヨは値札と上着を交互に見た。
「こんな薄いのに、大した値段だな」
「雨と風を防ぐ生地なんだよ」
「着てみねと分からねな」
キヨは、家の中で紫色の上着を脱いだ。
長く着た袖口は少し擦れ、
右のポケットの端には、同じ色の糸で縫った跡がある。
代わりに、新しい上着へ腕を通した。
首には、いつもの手拭いを巻いた。
「軽くていいな」
「今のは感想?」
「まだ独り言だ」
直人はカメラを回さなかった。
先に、キヨへ1枚の書面を渡した。
出演料は30,000円。
使える映像は、今回撮影する3本だけ。
メーカーが編集した場合も、公開前に直人とキヨが内容を確認する。
キヨは老眼鏡をかけ、上から下まで読んだ。
「さっぱり分からね」
「分からないまま、はんこを押さないでよ」
「だから、お前が説明しろ」
直人は、1項目ずつ普段の言葉に直して説明した。
キヨは途中で何度も質問し、最後に自分の名前を書いた。
「これで、山まで勝手に使われねんだな」
「今回撮った映像を、この服の宣伝に使うだけ。
別の商品に使うときは、もう一度相談が必要になる」
「ならいい」
山へ入る前に、キヨはいつもの編み籠を腰へくくりつけた。
新しい上着は紫色のものより丈が長い。
いつもの位置で籠を結ぶと、余った裾が紐の下でたるみ、籠が少し傾いた。
「裾を上げねと、籠がうまく締まらねな」
「撮っていい?」
「本当に邪魔なんだから、撮ればいい」
1本目は、初めて上着を着た1日の様子。
2本目は、山仕事での使い勝手を詳しく。
3本目は、使ったあとの感想。
直人は、3本を1日で撮影する予定を立てていた。
美咲と灯も山へ入ったが、撮影中は直人から少し離れて歩くことにした。
山へ入ると、キヨはいつもどおり迷わず斜面を進んだ。
風が吹いても、新しい上着の裾は大きく揺れなかった。
「風、通る?」
「通らねな」
「暖かい?」
「歩いてるから、何を着ても暖かい」
「広告に使いづらいな」
「本当のこと聞いたのは、お前だべ」
キヨは足を止めずに答えた。
小雨が落ちてくると、頭からフードをかぶった。
数歩進み、すぐに外す。
「どうした?」
「耳の周りで、かさかさ鳴る。山の音が聞こえにくい」
「雨は防げそう?」
「それは防げる」
斜面を上り始めて40分ほどたったころ、
キヨが一息入れようと、飴を探して何度も腰へ手を伸ばした。
3度目に手が空を切ったところで、直人は撮影を止めるか尋ねた。
「おれの手が、前のポケットを覚えてるだけだ」
その言葉を聞いて、直人はカメラを回したままにした。
昼近くになると、雨はやんだ。
キヨは倒木をまたぎ、腰を伸ばした。
「肩は楽だな」
「軽いから?」
「腕を上げても、肩が引っ張られね」
今度は迷わず脇腹へ手を伸ばし、飴を1つ取り出した。
「ポケット、覚えた?」
「これくらいならな」
キヨはもう1つ取り出し、直人へ差し出した。
「直坊も疲れたべ。これ、食え」
直人は飴を受け取り、その動きも撮影した。
きのこは、籠の底が隠れるくらいには見つかった。
それでも、キヨに言わせれば少ない方だった。
「もう少し、まとまって生えていれば撮りやすかったんだけどな」
直人が言うと、キヨは籠の中を見た。
「山は、こっちの都合で生やしてくれねからな」
「それも使っていい?」
「それなら、使えばいい」
*
実家へ戻った直人は、その日のうちに編集を始めた。
山の場所が分かる景色を外し、きのこが生えていた場所へつながる道も切った。
1本目の冒頭には、キヨが腰のポケットを探す場面を置いた。
そのあとに、雨を防げること、風を通しにくいこと、
腕を上げても肩が楽だったことを続けた。
フードの音と、腰籠の紐の下で裾がたるむ場面も残した。
最後は、キヨの手が迷わず脇腹のポケットへ届く場面にした。
翌朝、直人はノートパソコンをキヨの家へ持っていった。
「しわ、あまりきれいになってねな」
「昨日のキヨばあ、そのままだよ」
「化粧した意味あったのか」
「口紅は、ちゃんと映ってる」
キヨは画面へ顔を近づけ、3本すべてを見た。
「こんなに、ポケット探してたか」
「3回」
「2回にできねか」
「そこはできる」
1回分だけ短くすると、キヨはうなずいた。
「これならいい」
直人は、その日の夜に映像をメーカーへ送った。
翌日、担当者から修正の希望が届いた。
『ポケットを探す場面と、
フードの音に関する発言を削除できないでしょうか。
商品の使いにくさが強調される可能性がございます』
予想していた内容だった。
指定された2か所を削除したら、どんな映像になるのか。直人は頭の中で考えた。
軽い。風を通さない。雨を防ぐ。肩が楽。
それだけをつなげれば、最初に用意されていた台本と、ほとんど変わらない。
直人は返信を書いた。
『欠点を隠すのではなく、長く使った服との違いとして見せたいと考えています。
最後には新しいポケットへ迷わず手が届いており、
商品を否定する内容ではありません』
さらに、広告として使う短い題名を添えた。
『83歳のきのこ採りが、新しい上着を初めて着た日』
返事が来たのは、翌日の午後だった。
『社内で再検討し、ご提案いただいた構成のまま公開することとなりました』
メーカー側が加えたのは、
商品名と価格、広告であることを示す表示だけだった。
次の土曜日、
直人は完成版を入れたノートパソコンをキヨの家へ持っていった。
3本を最初から最後まで一緒に見て、キヨの了承を得た。
キヨが出る2本目が、いきなり広告になる。
直人は先に、アカウントへ知らせを載せた。
『次の3本は、このアカウントで初めての広告動画です。
キヨさんに実際に山で着てもらい、良かったところも、
使いにくかったところも、そのまま紹介します』
その日の夜、まず1本目を公開した。
翌朝、動画は180,000回再生されていた。
『キヨさん、今度は広告に出てる。すごい!』
『2本目でもう企業から声がかかったの? キヨさん有名人だ』
『広告なのに、困ったところまで話していて信用できる』
『うちの母も、いつも同じポケットを探しています』
『軽い上着を探していたけど、フードの音は盲点だった』
『紫色の上着も捨てないでほしい』
直人は最後のコメントを、キヨへ電話で読み上げた。
『捨てるわけねべ』
「新しい方は?」
『今日は雨だから、そっち着てる』
「気に入った?」
『軽いし、袖が濡れね。畑なら、こっちの方がいいな』
「山では?」
『晴れてれば、紫の方でいい』
「ポケットは、もう大丈夫?」
『たまに間違う』
キヨは少し間を置いた。
『そのうち、手が覚えるべ』
残りの2本は、翌週に分けて投稿した。
3本を公開し終えたあと、メーカーの担当者から新しいメールが届いた。
『腰籠の紐で裾がたるむ点と、フード着用時の音について、
次回商品の改良に向けて詳しくお話を伺えないでしょうか』
最初に求められたのは、キヨの顔と用意された台詞だった。
今度は、キヨが山で積み重ねてきた経験について、教えてほしいと書かれていた。




