第8話 山まで売るな
契約書につけた修正は、14か所になった。
金額について直したところは、1つもない。
動画3本で60,000円。
初めての企業案件は、その額で引き受けるつもりだった。
問題は金額ではなく、どこまで相手に任せるかだった。
元の契約書では、メーカーは受け取った映像を自由に編集でき、
直人へ確認せず、広告やSNSで公開できることになっていた。
使い方をすべて制限したいわけではない。
縦長への切り抜き、長さの変更、字幕や商品名の追加は、
宣伝する側に任せた方がいい。
ただし、編集後の映像は公開前に必ず直人と出演者へ見せ、承諾を得る。
商品の宣伝以外には使わない。撮影場所を特定できる情報は削る。
キヨが言っていない言葉を字幕で加えれば、
きのこ採りの映像を「誰でも入れる山」の宣伝に変えることもできる。
編集する権限は渡しても、何を公開されたのか後から知る契約にはできなかった。
その夜、直人は自宅のパソコンで契約書を修正し、メーカーへ送った。
翌朝、アウトドア用品メーカーから返信が届いた。
『ご提示いただいた条件は、おおむね検討可能です。
ただし、佐藤キヨ様には3本すべてへご出演いただきたいと考えております。
出演にかかる謝礼は、制作費に含むものとさせてください』
商品は、秋冬用の上着だった。
添付された企画書には、新しい上着を着たキヨが山へ入り、
きのこを見つけるまでを撮影すると書かれている。
その下には、キヨの台詞まで用意されていた。
『軽くて暖かい。これなら毎日でも山へ入れる』
企画名は、「山を知る人の、本物の一着」。
直人は、その言葉をしばらく見つめた。
キヨは、まだその上着へ袖を通したことさえない。
その日の午後、直人は会社の副業申請を出した。
単発でも、会社の規程では事前申請が必要だった。
契約を扱う自分が、知らなかったとは言えない。
直属の上司である小松部長へ、自分から声をかけた。
「個人で運営している動画アカウントに、広告の依頼が来ました」
「動画をやっていたのか」
「以前からです。3年ほど止めていましたが、最近また投稿しました」
小松は申請画面を開いた。
「相手の会社は、うちの取引先か?」
「違います。競合にも当たりません」
「会社の機材や勤務時間は使わない?」
「使いません」
「なら、審査へ回す。承認が出るまでは契約しないでくれ」
「分かりました」
それで話は終わった。
小松は、釜野のテレビ番組について何も知らなかった。
金曜日の夜、直人はキヨの家へ電話をかけた。
呼び出し音が7回鳴ってから、受話器が上がった。
『はい』
「キヨばあ、直人だけど」
『分かってる。こんな時間に電話するのは、直坊くらいだ』
「まだ8時だよ」
『おれは、もう寝るところだ』
「明日、美咲と灯を連れて行く」
受話器の向こうが、少しだけ静かになった。
『菓子、食ったか』
「チョコはその日のうちに食べた」
『そうか』
「灯が、自分でお礼を言うって」
『菓子くらいで、いちいちいい』
声は、先ほどより少し明るかった。
「それと、動画のことで相談がある。今度は企業からの依頼なんだ」
『金もらうやつか』
「よく分かったな」
『テレビに出たら、次はそういうのが来るって、黒木が言ってた』
「電話では説明しにくいから、企画書を持っていくよ」
『おれの顔を使うなら、勝手に決めるなよ』
「そのために電話してる」
『ならいい。明日聞く』
*
土曜日の朝、直人たちは新幹線で山形へ向かった。
灯は窓際の席に座り、建物が減っていくたびに外を指さした。
「山ばっかりになった」
「釜野は、もっと山ばっかりだぞ」
「コンビニはある?」
「ない」
「遊ぶところは?」
「山と川と、庭」
「それ、遊ぶところなの?」
直人も子どものころ、同じことを思っていた。
駅で借りた車が釜野へ近づくと、灯は次第に口数を減らした。
窓の外を、途切れることなく山が流れている。
道路脇の家は少しずつ離れ、
最後には、次の家が見えるまで何度もカーブを曲がるようになった。
「ここから釜野?」
「もう釜野だよ」
「村の入り口は?」
「そんなものはない」
後部座席から、美咲が笑った。
実家へ荷物を置くと、3人でキヨの家へ向かった。
キヨは家の前の畑で、白菜の外葉を縛っていた。
紫色の上着を見つけた灯が、直人より先に駆け出した。
「キヨばあちゃん!」
キヨが腰を伸ばし、目を細めた。
「灯ちゃんか」
「なんで分かったの?」
「直坊に似てる」
「お母さんには?」
「それは、もう少し見ねと分からね」
灯はキヨの前で立ち止まった。
「お菓子、ありがとう。チョコ、おいしかった」
「飴はどうした」
「まだある。好きなのから食べた」
「直坊もそうだった」
「俺は最後まで取っておく方だったよ」
「昔のことだから、どっちでもいい」
キヨはそう言って、灯の頭を軽くなでた。
美咲は、野菜で作った鍋がおいしかったことを伝えた。
「あんなにたくさん、ありがとうございました」
「畑にあっても、おれ1人では食いきれねから」
「白菜が甘くて、灯もたくさん食べました」
「それなら、持たせた甲斐あった」
キヨは灯を見て、満足そうにうなずいた。
家へ上がると、直人は印刷してきた企画書を座卓に広げた。
キヨは老眼鏡をかけ、商品の上着が載ったページへ顔を近づけた。
「おれが、これを着るのか」
「メーカーは、そうしてほしいと言ってる」
「今のが、まだ着られる」
キヨは紫色の袖をつまんだ。
「新しい方は、軽くて雨にも強いらしいよ」
「今のも、少しくらいの雨なら平気だ」
「この服を紹介する仕事なんだ」
「服を売るのに、なんでおれがきのこを採る」
直人は答えに詰まった。
美咲が、企画書を横からのぞき込んだ。
「動画を見た人が、キヨさんと同じものを着たいと思うからじゃないですか」
「おれと同じにしたら、しわまで増えるぞ」
灯が笑った。
直人は、制作費が3本で60,000円であること、
それをキヨと30,000円ずつに分けたいことを説明した。
「おれは、金なんていらね」
「今回は、村の記録じゃなくて広告だ。
メーカーはキヨばあの顔を使って、服を売る」
「直坊がもらえばいい。撮るのも、切るのも、お前だべ」
「俺だけ撮っても、あの服は売れないよ。キヨばあが着るから、仕事になるんだ」
キヨは、老眼鏡の上から直人を見た。
「面倒なこと言うようになったな」
「そういう仕事をしてるから」
「でも、30,000円ももらっていいのか」
「キヨばあがいなければ、この依頼自体が来てないよ」
「なら、半分こだな」
「もちろん」
「きのこが採れね日でも、おれに金返せと言うなよ」
「それは契約に入れておく」
キヨは企画書をもう一度見た。
「この服を着るのは構わね」
キヨは、企画書に印刷された台詞を指でたたいた。
「でも、まだ着てもいねのに、軽くて暖かいとは言えね」
「これは先方が考えた台本だから、変えられるよ」
「着てみてから、おれの言葉で話す。それだけだ」
直人は企画書の表紙を見た。
山を知る人の、本物の一着。
本物を撮りたいはずの企画書には、まだ誰も口にしていない感想が書かれていた。
「台詞を決めずに撮るなら、出てもいい?」
「きのこを採るところを撮るのは構わね。
ただし、生える場所も、山へ入る道も映すな」
「前と同じだな」
「それから、誰でも入っていい山みたいには撮るなよ」
キヨは企画書を直人へ返した。
「服は着てみる。けど、山まで売り物みたいに見せるのは、違うべ」
直人は、その言葉を手帳へ書いた。
「あと、顔はこの前みたいに、しわを少しきれいにしろ」
「広告だから、別人になるほどは直せないよ」
「化粧だけでもいい」
「それなら、私がします」
美咲が言うと、キヨは初めて企画書よりうれしそうな顔をした。
黙って話を聞いていた灯が、座卓の上の山の写真を指さした。
「山も売れるの?」
「売ろうと思えばな」と直人は答えた。
「いくら?」
「場所によるけど、釜野の山は買う人を見つける方が難しい」
「じゃあ、安いの?」
「売るときは安くても、持っていれば手入れがいる。
木が隣の土地や道路へ倒れたら、片づけないといけないこともある」
灯は少し考えた。
「じゃあ、山はいらない。でも、きのこ採りはしたい」
「それでいい」
キヨが老眼鏡を外した。
「山を持たなくても、採る日に来ればいい。勝手に入らず、持ち主に聞いてからな」
「今日も行ける?」
灯が身を乗り出す。
「その靴なら、少しだけだ」
キヨは立ち上がると、腰へ編み籠をくくりつけた。
山へ入る前に、直人はいつものようにスマートフォンを取り出した。
「今日は撮らなくていいべ」
キヨが言った。
「どうして?」
「灯ちゃんは、仕事で来たんでね」
直人はスマートフォンをしまった。
先頭を歩くキヨの紫色の背中を、灯が追いかける。
美咲はその後ろを歩き、直人は一番後ろについた。
山の中で、灯は何度も立ち止まった。
落ち葉を拾い、丸いどんぐりをポケットへ入れ、
名前の分からない赤い実をキヨに見せた。
「足元だけ見てると、きのこは見つからねぞ」
「きのこも下にあるよ」
「下にあるけど、下ばかり見ても駄目なんだ」
キヨはそれ以上教えず、ゆっくり斜面を上った。
昔より歩幅は小さい。それでも、迷うことはなかった。
灯が斜面を少し下り、振り返った。
茶色い落ち葉の間から、白っぽい傘の裏がのぞいている。
「あった!」
灯の声が、山の中へ響いた。
キヨは振り返らなかった。
「採ってみろ」
それだけ言って、先へ進んだ。
祖父も、直人に同じことをした。
直人は、ポケットの中のスマートフォンに触れた。
取り出さなかった。
*
夕方、4人はきのこを持って実家へ戻った。
キヨが帰ったあと、灯は父の部屋で、段ボール箱に入った5年日記を見つけた。
「これ、じいじの?」
「そうだよ。毎日のことを書いてたんだ」
直人は古い5年日記を1冊取り出し、8年前の6月2日を開いた。
『直人から電話。孫が生まれた。名前は灯。母子ともに元気』
灯は、自分の名前を指でなぞった。
「じいじ、私のこと書いてたんだね」
「生まれた日のうちにな」
灯はしばらくそのページを見つめていた。
「今日のことは?」
「父さんは、もう書けない」
「パパが書けばいいじゃん」
直人は古い日記を段ボール箱へ戻し、
父が亡くなるまで使っていた別の5年日記を手に取った。
今日のページには、2年分の里芋掘りや初霜の記録が並んでいた。
3段目の今年の欄から先は、白い。
直人は、そこへペンを置いた。
美咲と灯、釜野へ来る。
灯、キヨと山へ入り、きのこを1本見つける。
父の字が途切れた先に、直人の字で新しい1日が並んだ。




