第5話 家がなくても帰っていい
コメント欄に釜野の名前が書かれてから、
最初の車が来るまで、12時間もかからなかった。
翌朝、直人がエンジン音で目を覚ますと、
見慣れない白い車が実家の前をゆっくり通り過ぎた。
県外ナンバーだった。
道を間違えたのだろうと思った。
だが車は少し先で向きを変え、もう一度、実家の前を通った。
そのままキヨの家の方へ上っていく。
直人は上着を羽織り、外へ出た。
キヨの家の前に、先ほどの車が停まっていた。
30代くらいの男女が、
庭先から山へ続く細道をスマートフォンで撮っている。
男の靴は、キヨの畑の端へ半分入っていた。
「何かご用ですか」
直人が声をかけると、2人は驚いて振り返った。
「あの、動画を見て来たんです。きのこのおばあちゃんがいるところですよね」
男は悪びれず、むしろ嬉しそうにスマートフォンの画面を見せた。
映っていたのは、直人が投稿したキヨの動画だった。
「コメントに地区名があったので、地図で探しました。
思ったより近かったから」
「きのこが採れる山って、ここから入るんですか?」
女が細道を指さした。
「ここから先は、勝手に入れません」
「少し見るだけでも?」
「山にも畑にも持ち主がいます。動画を見たこととは関係ありません」
直人の声が思ったより強くなった。
2人は顔を見合わせた。
「すみません。観光できる場所なのかと思って」
男が畑から足を戻した。
そのとき、キヨが玄関から出てきた。
「朝から何だ」
「動画を見て来たんだって」
直人が説明すると、キヨは2人のスマートフォンを見た。
「きのこの場所を知りたいそうです」
「採れる場所は、人に教えるもんでないよ」
キヨは怒鳴らなかった。
ただ、庭と畑の境に立ったまま、それ以上2人を中へ入れなかった。
「動画を出していいとは言った。家まで来ていいとは言ってないよ」
2人の表情から、ようやく笑みが消えた。
「本当に、すみませんでした」
女が頭を下げた。
帰り際、2人は車の窓を開け、もう一度謝った。
悪い人たちではなかったのだろう。
だからこそ直人は、自分の失敗だと思った。
場所の分かる景色は外し、公開の了承も得た。
それで十分だと思っていた。
「キヨばあ、ごめん」
「直坊が場所を書いたわけでないべ」
「でも、動画を出したのは俺だ」
「なら、次は来ないようにしてくれ」
キヨはそれだけ言い、縁側に干していた豆を裏返し始めた。
許したとも、怒っているとも言わなかった。
直人は実家へ戻ると、すぐに釜野と書かれたコメントを削除した。
動画はそのままに、説明文と固定コメントへ、
個人宅や山林を訪ねないでほしいと書き加えた。
地名や住所の書き込みも削除すると伝えた。
そのうえで、釜野の名前を書いたアカウントへメッセージを送った。
『投稿者の佐久間です。場所が特定され、
今朝、動画を見た方が住民の家を訪ねてきました。
地区名の公開は控えてください』
返事はすぐに来た。
『申し訳ありません。懐かしくなって、何も考えずに書いてしまいました』
続けて、もう一通届いた。
『自分も釜野で育ちました。大沼亮介といいます。
このアカウント、佐久間直人で合ってるか?』
名前を見た瞬間、子どものころの顔が浮かんだ。
大沼亮介。直人より3学年上だった。
釜野小学校では一緒に掃除をし、
冬は上級生として集団登校の先頭を歩いていた。
中学校を卒業したあと一家で県外へ移り、それきり会っていない。
アカウントのプロフィールには、佐久間直人という本名を載せていた。
更新を止める前の投稿には、今より少し若い直人の顔も映っている。
『そうです。直人です』
『電話で謝りたい。俺の番号を送ってもいいか』
『お願いします』
亮介から送られてきた番号へ、直人の方から電話をかけた。
『直人だよな。本当にごめん』
「亮介兄ちゃん?」
『そうだよ。声で分かったか』
「分かるよ。昔と変わってない」
亮介は現在、埼玉で住宅設備の仕事をしているという。
『キヨばあの声を聞いたら、書かずにいられなくなってさ。
うちの親父もおふくろも、もういないだろ。
釜野の話をする人が周りに誰もいなくなったんだ』
「それで、あのコメントを?」
『うん。動画を見つけたって、釜野を出た人たちの連絡先にも送った。
みんな喜んでた。でも、家まで人が行くなんて考えなかった』
直人も考えていなかった。
電話の向こうから、女の子の声が聞こえた。
『お父さん、誰と話してるの?』
『父ちゃんが子どものころ、一緒に遊んだ人だ』
亮介が電話をスピーカーに切り替えた。
『娘の結衣。小学校5年生だ。動画を見て、
釜野できのこを採ってみたいって言ってる』
『結衣です』
少し恥ずかしそうな声だった。
「釜野に来たことは?」
『ないです。お父さんの家、まだあるんですか』
直人は答えに迷った。
大沼家は、一家が県外へ移ったあと長く空き家になっていた。
何年か前の大雪で屋根が落ち、亮介たち家族が費用を出して取り壊した。
今は石垣と、玄関へ続いていた階段だけが残っている。
亮介が、娘に代わって答えた。
『もうないんだ。何年か前に、父ちゃんたちで壊したんだよ』
『じゃあ、お父さんは帰れないの?』
結衣が聞いた。
亮介は困ったように笑った。
『帰るっていっても、泊まる家もないからな』
その言葉を聞いて、直人はキヨの顔を思い浮かべた。
「いったん切るよ。キヨばあに聞いて、
よければこっちからビデオ通話をかけ直す」
『怒ってるだろ』
「怒ってるかどうかは、俺にも分からない」
直人はいったん電話を切り、キヨの家へ向かった。
事情を話すと、キヨは豆を選り分けていた手を止めた。
「亮介か」
「画面で顔も見られるよ。つないでみる?」
キヨがうなずいたので、直人は亮介へメッセージを送り、ビデオ通話をかけた。
画面に映った亮介は、髪が少し薄くなり、顎に白いものが混じっていた。
それでも、笑うと左の頬だけにえくぼができた。
キヨは老眼鏡をかけ、直人のスマートフォンを両手で持った。
『キヨばあ。久しぶり』
「誰だ、これは」
『亮介だよ。大沼の』
「亮介は、もっと髪あったべ」
亮介の隣に座っていた結衣が吹き出した。
亮介も頭を押さえて笑った。
『場所を書いて、本当にごめん。直人に消してもらったよ』
「次から気をつければいい」
『うん』
「それで、いつ帰ってくる」
亮介はすぐに答えなかった。
『帰っても、うちはもうないし。俺が行ったって、できることもないよ』
「家がなくても、お前の顔を知ってる人がいるうちは、帰ってきたって言っていいべ」
キヨは亮介の隣にいる結衣へ目を向けた。
「雪が降る前に、その子を連れて来い。おれが山さ連れていってやる」
『きのこ採ってもいいの?』
結衣が画面へ顔を近づけた。
「おれと一緒ならな。ただし、山では勝手に離れるなよ」
『分かった。行く日が決まったら、直人に連絡するよ』
と亮介が言った。
通話を終えたあと、キヨはスマートフォンを直人へ返した。
「亮介も年取ったな」
「キヨばあが言う?」
「おれは昔から、だいたいこの顔だ」
*
翌週の日曜日、亮介は結衣を連れて釜野へ来た。
直人の実家へ先に寄り、軽トラックのあとをついてキヨの家まで上った。
車から降りた亮介を、キヨはしばらく眺めた。
「本当に亮介だな」
「今ごろ分かったの?」
「歩き方は変わらね」
キヨはそう言って、結衣に菓子の入った小さな袋を渡した。
「お父さんが子どものころも、よくお菓子をくれたんですか」
「亮介は、勝手に2つ持っていった」
「1つしか取ってないよ」
「昔のことだから、もう1つ増やしても分からね」
結衣が笑った。
キヨは腰へ編み籠をくくりつけた。
「約束したからな。少しだけ山さ行くべ」
「キヨばあ、無理しなくてもいいよ」
亮介が心配そうに言うと、キヨは鼻で笑った。
「お前よりは、この山を歩ける」
キヨを先頭に、結衣、亮介、直人の順で山へ入った。
歩いて10分ほどの斜面で、キヨが足を止めた。
「結衣。あの木の周り、見てみな」
結衣は落ち葉の上へしゃがみ込み、木の根元を探した。
「何もないよ」
「少し下まで行って、振り返ってみろ」
キヨに言われたとおり斜面を下り、結衣が振り返った。
しばらくして、枯れ葉の間を指さした。
「あった」
小さなきのこの傘の裏が、斜面の色から浮いて見えていた。
「採っていい?」
「ここは、おれん家の山だからいい。ただし、ほかの山で勝手に採るなよ」
「はい」
結衣が両手できのこを採るのを、キヨは黙って待っていた。
かつて祖父が直人へしてくれたことが、今度は釜野を知らない子どもへ渡っていった。
そのあと、直人は2人を大沼家の跡へ案内した。
石垣の上には、背の高い草が生えていた。
玄関へ続いていた3段の階段だけが、昔と同じ場所に残っている。
亮介は階段へ腰を下ろした。
「ここが、お父さんの家?」
「そう。ここから毎朝、学校まで歩いた」
「何もないね」
「うん。何もなくなった」
亮介は否定しなかった。
しばらくして、足元の土から丸い石を1つ拾った。
「でも、この階段は覚えてる。冬になると凍って、毎朝滑ったんだ」
結衣は父親の隣へ座った。
家があった場所を、2人でしばらく眺めていた。
帰る前に、亮介は車から古い段ボール箱を下ろした。
「おふくろの荷物を整理したら出てきた。釜野の写真、捨てられなくて」
箱の中には、運動会、夏祭り、稲刈り、雪下ろしの写真が何百枚も入っていた。
直人の知らない若いころの父も写っている。
「これ、預かっていいの?」
「うん。俺には誰が写ってるか、半分も分からない。
ここなら、分かる人がまだいるだろ」
亮介は箱を直人へ渡した。
「住むことはできない。でも、これくらいなら俺にも返せる」
直人は段ボール箱を受け取った。
動画を見て懐かしがる人が増えれば、釜野へ帰ってくる人も増える。
そんな期待が、どこかにあった。
けれど、離れたままでも、故郷へ返せるものはあるのかもしれない。
その夜、キヨの動画は再生回数500,000回を超えた。
釜野の元住民から、
昔の写真や映像を持っているという連絡が、新たに17件届いていた。
その中に、差出人の種類が違うメールが1通あった。
『地域情報番組で、キヨさんと釜野地区を取材させていただけないでしょうか』
県内のテレビ局からだった。




