第3話 廃校の最後の卒業生
「直人さん。久しぶりです」
キヨの家から戻ると、実家の前に見慣れない白い車が停まっていた。
運転席の脇に立っていた男は、紺色の作業着の上に薄いダウンジャケットを着ていた。
短く切った髪に、日に焼けた顔。直人より少し若く見える。
右の眉尻に、小さな傷があった。
「誠司か」
「はい。お久しぶりです」
黒木誠司。直人より4学年下だった。
釜野には子どもが少なかった。4学年離れていても、登校も放課後の遊びも一緒だった。
集団登校では、誠司は上級生に挟まれて列の真ん中を歩いた。
雪の深い日、遅れそうになるランドセルを、直人が後ろから押したこともある。
右の眉尻の傷は、学校の鉄棒から落ちたときにできたものだ。
目の前にいるのは、もう34歳の男だった。
「今もこの辺に住んでるのか?」
「釜野には住んでません。今は市街地です。市役所に勤めてます」
黒木は市役所の名刺を差し出した。所属は地域振興課、肩書は主任だった。
「今日は仕事で?」
「達郎さんに頼まれていたものを渡しに来ました」
「父さんに?」
「自分に何かあって、直人さんが帰ってきたら、この資料を渡してくれって」
「いつ、そんなことを?」
「頼まれたのは去年の秋です。昨日キヨさんから、直人さんがしばらくいると聞いて、持ってきました」
黒木は車の後部座席から、厚い紙のファイルを取り出した。
「渡す前に、一緒に見てほしい場所があります」
「学校?」
「来年、校舎がなくなるので」
*
釜野小学校は、直人の実家から歩いて10分ほどの場所にあった。
直人が卒業したころには全校児童が7人いた。複式学級で、運動会には子どもより保護者と老人の方が多かった。
それでも、学校は学校だった。
朝になれば校歌が流れ、昼には給食の匂いがして、放課後には誰かの声が校庭から聞こえた。
黒木が卒業したのは、その4年後だった。
門柱の学校名は、雨と雪に削られて読みづらくなっていた。
校庭には膝ほどの高さまで草が生えていた。鉄棒やブランコは塗装が剥がれ、
支柱に赤い錆が浮いている。校庭の隅にある2本の桜は、子どものころより幹が太くなっていた。
黒木はポケットから鍵を出し、昇降口を開けた。
「その鍵、どうしたんだ?」
「学校は市の建物です。取り壊し前の確認で、管財の担当から鍵を借りました」
中へ入ると、乾いた木と埃の匂いがした。
小さな下駄箱が並んでいる。直人が使っていた場所は覚えていない。
それなのに、廊下のどこが冬になると滑り、どの窓から蜂が入ってきたかは覚えていた。
教室の後ろには、色の抜けた習字が数枚残されていた。
直人は、そのうちの1枚の前で足を止めた。
太い字で、「未来」と書かれている。
左下の名前は、黒木誠司。
「これ、お前が書いたのか」
「6年生のときです」
「ずっと残ってたんだな」
「片づける人がいなかっただけですよ」
黒木は習字を見上げなかった。
廊下の先にある体育館へ入った。
ステージの緞帳には、金色の校章が残っている。その下に、折り畳まれた椅子が何列も積まれていた。
「誠司の卒業式、俺も来たよな」
「はい。地区の人は、ほとんど来てくれました。卒業生は俺1人なのに、椅子が足りなくなったんです」
黒木は積まれた椅子の背を軽く指でなぞった。
「達郎さんも並べてくれました。清一じいさんは、始まる前から酒臭かった」
「祖父ちゃんならやりそうだ」
「名前を呼ばれて返事をしたら、後ろから何十人分も拍手が聞こえた。
あのときは、1人でも寂しくないと思いました」
黒木はそこで言葉を切った。
「でも、その4月には、入学式がありませんでした」
体育館の高い窓から、細い光が差し込んでいた。
空気の中を、白い埃がゆっくり落ちていく。
「来年の春、校舎と体育館を取り壊します」
黒木は事務的な声に戻った。
「屋根も壁も傷んでる。このまま雪を何年も載せておく方が危ない」
直人は反射的に、体育館を見回した。
ここで入学式をした。
学芸会で台詞を忘れた。
冬には端に置かれたストーブの周りへ集まり、濡れた手袋を乾かした。
「壊すしかないのか?」
「直人さんが維持しますか?」
黒木の言葉に、責める響きはなかった。
だからこそ、すぐに答えられなかった。
「残したいと言う人は大勢います。でも、点検も修繕も、草刈りも毎年続く。
使う人のいない校舎に、市もいつまでも費用をかけられません」
思い出すだけなら、東京でもできる。
維持する仕事だけが、釜野に残る。
「思い出まで壊すわけじゃありません」
黒木はそう言ったが、直人にはまだ、建物と思い出をうまく分けられなかった。
体育館を出る前に、黒木はステージ脇の棚から1枚の写真を取り出した。
最後の卒業式の集合写真だった。
中央に、12歳の黒木が立っている。
その周りを、晴れ着を着た両親と教師、釜野の住民たちが囲んでいた。
父もいた。祖父もいた。
つい先日まで生きていた人も、ずっと前に亡くなった人も、同じ写真の中で笑っている。
「これも捨てるのか?」
「これは持って帰ります」
黒木は写真を透明なケースへ丁寧に収め、鞄へしまった。
それから、持ってきた紙のファイルを取り出した。
表紙には、印字された文字があった。
『釜野地区 暮らしと土地の聞き取り』
直人は黒木の手元を見た。
「それが、父さんと話してたこと?」
「達郎さんが1軒ずつ聞いていたことを、俺が整理したんです。市の正式な資料ではありません」
黒木はファイルを直人へ差し出した。
父が話を聞いた人たちの名前が並んでいた。亡くなったトミの名前もある。
家、畑、山、墓。今後どうしたいかと、家族の連絡先が記されていた。
父の名前もあった。
家も、田んぼも、山も、任せたい相手の欄には直人の名前が書かれていた。
その横に、「本人とはまだ話していない」と父の字で添えられている。
「これは、何のために作ったんだ?」
黒木はすぐには答えず、昇降口へ向かった。
2人が校舎を出ると、黒木は釜野の家々を見下ろした。
「住民を移すためではありません」
「住み続けるかどうかは、本人が決めることです。
ただ、人が亡くなったり、子どもの家へ移ったりして空き家になると、
誰へ連絡すればいいのかさえ分からなくなる。
畑や山も、引き継ぐ人が決まらないまま残ります」
「市役所が、そこまで決めるのか?」
「決められません。だから、本人が話せるうちに、希望だけでも聞いておくんです」
ファイルの中には、売りたい、壊してほしい、できれば残したい、
まだ決められないという言葉が混在していた。
「父さんは、釜野をなくしたかったのか?」
「分かりません」
意外な答えだった。
「達郎さんは、聞いたことを俺に渡しただけです。
最後まで、釜野をどうしたいのかは言いませんでした」
「誠司は、なくなると思ってるんだな」
「はい。学校がなくなっても、釜野で暮らすことはできます。
でも、これから家は1軒ずつ減っていく。俺にそれを止める権利はありません」
黒木は、直人が持つファイルへ目を落とした。
「無理に誰かを出すつもりもありません。
ただ、最後の1軒になった人に、残ったものを全部背負わせたくないんです」
キヨが言った言葉を思い出した。
父は、この村が終わる時のことを考えていた。
直人のスマートフォンが震えた。
再生回数は237,000回に増えていた。
動画についた新しいコメントが、画面に表示されていた。
『この村は、どこにありますか。行ってみたいです』
黒木も、横からその文字を見た。
「来てみたい人と、ここで暮らす人は違います」




