第2話 最後のきのこ採り
『この村を、残そうとするな』
父はそう言ったあと、しばらく黙っていた。
映像が止まったのかと思い、直人が画面へ顔を近づけると、父は小さく咳払いをした。
『ただ、なくす前に、返しておかなきゃならないものがある』
父は画面の外へ手を伸ばした。紙をめくるような音がした。
『このパソコンに、釜野のみんなを撮った映像が入ってる。
1人に1本ずつだ。本人に見せて、消すか、残すか、決めてもらってくれ』
映像の契約や権利処理を仕事にしている直人には、その考え方が意外だった。
父は契約書など読まない人だった。
テレビに直人の会社の名前が一瞬映っただけで、
息子が番組を作ったと勘違いして電話をかけてくるような人だった。
『まあ、頼んだぞ』
父は録画を止めようとして、画面いっぱいに手のひらを映した。
数秒間、父の指紋を見せられたあと、映像は終わった。
「最後まで機械に弱いな」
直人は笑った。
父が死んでから、初めて笑った気がした。
そして笑ったことを、少しだけ申し訳なく思った。
次の映像には、『佐藤キヨ』という名前がついていた。
キヨは直人の実家から数軒上に住む、83歳の小柄な女性だった。
物言いははっきりしていて、愛想よく話す人ではない。
そのくせ、直人が回覧板を届けると、決まって菓子箱を出した。
車庫のガラスを割ってしまったときも、直人を泣くまで叱ったあと、帰りには菓子を2つ持たせてくれた。
怖かったのか、好きだったのか。
子どものころの直人には、よく分からない人だった。
再生すると、紅葉した山の斜面が映った。
画面の先を、腰に籠をくくりつけたキヨが歩いている。去年撮影されたものらしい。
『キヨさん、ちょっと止まってくれ。揺れて撮れない』
スマートフォンを持つ父の声は、すぐ後ろから聞こえていた。
『歩きながら撮るからだ。転ぶぞ』
画面が大きく上下したあと、ぴたりと止まった。
父の足取りに迷いはない。画面を確かめるときだけ立ち止まり、歩き出せばすぐにキヨへ追いついた。
キヨは斜面の下側へ回り、腰をかがめた。
『ほら、あそこだ』
『どこだ』
『木の根元。斜面の下から見てみろ』
父が近づくと、枯れ葉の間から小さなきのこがいくつも顔を出していた。
『毎年、同じところに出るのか』
『だいたいはな。でも、何十年歩いてたって、新しい場所に気づく年もある。
山は毎年同じに見えて、同じでない』
キヨは自分で採らず、父に顎を向けた。
『そこに生えてる。採ってみろ』
その言葉を聞いた瞬間、直人は祖父の清一を思い出した。
祖父も、きのこを見つけても自分では採らなかった。
『そこにあるから、お前が採れ』
それだけ言って先へ進んでしまう。
直人には、その「そこ」が見つけられなかった。
足元ばかり探しているうちに祖父の背中が小さくなり、何度も山で見失いそうになった。
家へ帰ると、祖父は古いきのこ図鑑を開いた。
その日に採ったものを新聞紙の上へ並べ、これは何という名前で、どんな木の近くにあったかを
1つずつ教えた。
山でも教わったはずだが、ついていくのに必死で、ほとんど覚えていなかった。
その祖父も、もういない。
キヨが示した場所へ、画面は迷わず寄っていった。
映像は7分ほどで終わった。
直人はパソコンを閉じ、キヨの家へ向かった。
*
玄関の引き戸を開けて声をかけたが、返事はなかった。
軒下には、干した大根が何本も並んでいる。
畑にも姿はない。
しばらく待っていると、家の脇から山へ続く細道を、紫色の上着が下りてきた。
「キヨばあ」
声をかけると、キヨはゆっくり振り返った。
背中は映像で見たときより丸く見えた。腰には、使い込まれた編み籠が紐でくくられている。
「直坊か」
昔と同じ呼び方だった。
キヨは腰の紐をほどいて籠を下ろし、直人の前へ差し出した。
中には何種類ものきのこが重なっていた。
「久しぶりに帰ってきたんだ。これ、持っていけ」
「これ、全部1人で採ったの!?」
「当たり前だ。昔ほどは採れねけど」
「全部はもらえないよ」
「好きなだけ持っていけ。どうせ、おれ1人では食いきれね」
キヨは玄関先に新聞紙を広げ、籠の中身をその上へ移した。
形のいいものを紙袋へ詰めて直人に持たせると、空になった籠を腰へくくり直し、
もう一度、山の方を見た。
「せっかく帰ってきたんだ。あっちの山にも行ってみるか」
「今から?」
「昔、清一について歩いたろ」
そう言われると、断る理由はなかった。
直人は紙袋を玄関へ置き、キヨと一緒に別の山道へ入った。
キヨは以前ほど速く歩けなくなっていた。
急な場所では一歩ずつ足場を選ぶ。それでも、次にどこへ向かうか迷うことはなかった。
斜面全体を大きな地図のように見て、木から木へ、昔から決まっている道をたどっていく。
直人は若く、足もキヨより動く。だが、自分がどこを歩いているのかさえ分からなかった。
「足元だけでなく、斜面の下から見てみろ」
映像と同じことを言われた。
直人は少し斜面を下り、振り返った。
さっきまで枯れ葉に紛れていたきのこが見えた。傘の裏だけが、山の色から浮いている。
「あった」
「ほら、採ってみろ」
キヨは手を出さずに待っていた。
直人が慎重に採ると、キヨは1度だけうなずいた。
祖父も、こうして待っていたのだろうか。
あのころは、どうして見つけた本人が採らないのか分からなかった。
今になって考えれば、祖父はきのこではなく、見つけ方を渡そうとしていたのかもしれない。
もっとも、単に腰をかがめて採るのが面倒だっただけかもしれない。
直人は1人で少し笑った。
「キヨばあ。少し撮ってもいい?」
直人はスマートフォンを見せて尋ねた。
「何に使う?」
「昔やってたアウトドアのアカウントに載せようと思ってる。知らない人も見る」
「これをか」
「うん。きのこを見つけるところと、採る手元を撮りたい」
キヨは斜面を見回した。
「場所が分かるようには撮らないでくれ」
「分かった」
「採れる場所は、むやみに人へ教えるものではない。
それから、映像を見ただけで食えると思わせないでくれ。山を知らない人が真似すると危ないからな」
「それも分かった」
「顔はやめてくれ。こんなしわだらけの顔を、世間に見せるのは恥ずかしい」
「手元だけにするよ」
キヨはそう言いながら、直人が撮りやすいように、きのこへ積もった葉をもう一度かき分けた。
山を下り、キヨの家に置いていた紙袋を手に、2人で直人の実家へ戻った。
父の映像を見せると、キヨは画面に映る自分を見て顔をしかめた。
「思ったより年寄りに映ってるな」
「去年の映像だよ」
「機械が悪い」
「これは父さんが撮ったままだから、少しなら明るくできるよ」
「東京の人なら、しわの2本や3本、綺麗にできるべ」
「そういう仕事じゃないんだけどな」
試しに直人が肌の補正を強くすると、画面のキヨは陶器の人形のような顔になった。
「これは、おれじゃないな」
「キヨばあを若くしたつもり」
キヨは陶器のような自分の顔を、しばらく黙って眺めた。
「まあいい。ついでに化粧も」
「そこまでやったら、別人だよ」
結局、映像を少し明るくし、目元のしわをほんのわずかにやわらげるところで折り合った。
文句を言ったのは最初だけだった。
映像が終わっても、キヨはしばらく画面を見つめていた。
「父さん、この映像を撮る前から、何か聞いて回ってた?」
「去年の春にな。自分で雪かきできなくなったらどうする、家や畑は誰に任せるって」
「そんなことまで?」
「おれだけでない。みんなに聞いて回ってた」
「消す?」
「残したって、見る人いるのか」
「分からない。だから本人に決めてもらえって」
キヨは窓の外を見た。
「何か残しておきたいことがあれば、声も撮っておこうか」
キヨがうなずいたので、直人はスマートフォンの録画を始めた。
「息子なら覚えてる。子どものころから、嫌になるほど山さ連れてったからな」
「孫も?」
「小さいころ、何度かだけな。息子は仕事で仙台さ出たし、あの子も大きくなった。
もう何も覚えてねえべ」
寂しいとは言わなかった。
直人も、帰ってくればいいとは言えなかった。
「動画なら、あとから何度でも見返せる。父さんの映像と今日の手元を合わせて、短くしてみようか」
「あの子が見るかは分からね」
「それでも残す?」
キヨは少し考えた。
「帰ってこいとは言わね。ただ、あの子がいつか、ばあちゃんは何を採ってたっけと思ったときに、見られればそれでいい」
キヨが自分の家へ戻ったあと、直人は、父が撮った去年のキヨと、
今日撮ったキヨの手元を短い動画にした。
場所が分かる景色は外した。きのこの種類や食べ方も説明しなかった。
最後に、キヨの声だけを重ねた。
『ばあちゃんは何を採ってたっけと思ったときに、見られればそれでいい』
できた映像をキヨの家へ持っていき、顔が映る場面も含めて見てもらった。
「これを、知らない人も見られるところへ出していい?」
「いい。さっきより、しわがましだ」
直人は、3年近く止めていたアウトドアのアカウントに動画を投稿した。
フォロワーは19,842人。
1時間後、再生回数は2,318回だった。
「まあ、こんなものか」
スマートフォンを伏せ、父の5年日記を段ボール箱へ入れ始めた。
夕方、もう1度画面を確かめる。
再生回数は120,000回を超えていた。
通知が止まらない。
きのこを探すキヨの手が好きだという人。
亡くなった祖母を思い出したという人。
自分の実家も、帰るたびに家が減っていると書く人。
*
翌朝、直人はスマートフォンを持ってキヨの家を訪ねた。
キヨは居間で新聞を読んでいた。直人が昨日の動画を見せると、
老眼鏡を少し持ち上げて画面をのぞき込んだ。
「これが、12万?」
「まだ増えてるよ」
直人は、寄せられたコメントをいくつか読み上げた。
「こんなに大勢、何を見てるんだ」
「キヨばあが、きのこを採ってるところ」
「そんなもの、見て面白いのか」
そう言いながらも、キヨは画面から目を離さなかった。
そのとき、居間の隅に置かれた電話が鳴った。
キヨは受話器を取り、相手の声を聞いて目を丸くした。
「孫からだ」
受話口から、若い女性の弾んだ声が漏れてきた。
『父さんから動画が送られてきたよ。ばあちゃん、すごいね』
「直坊が、うまいことしただけだ」
『正月は帰るよ。そのとき、また話を聞かせて』
「そうか。気をつけて帰ってこい」
受話器を置いたあとも、キヨはしばらく電話の前に立っていた。
直人が何も言わずにいると、キヨは少し緩んだ口元を隠すように、新聞を取り上げた。
「さっき言ってたこと、もう少し教えて。父さんは何を聞いて回ってたんだ」
直人が言うと、キヨは窓の外へ目を向けた。
「雪かきのことだけでない。空き家をどうするか、田畑や山を誰に任せるか、墓は今後どうするか。1軒ずつ聞いて歩いてた」
「何のために?」
「達郎が撮ってたのは、村を残すためでない」
「あの人は、この村が終わる時のことを考えてたんだ」




