条件の交渉を求める
皇室典礼院長でありマナー講師でもあるベルンシュタイン夫人は、顔を真っ青にして悲鳴をあげ、嘆きながら妾に苦言を呈した。
「なぜ――姫様、どうして――なんということを! どうしてですの!? あんなに……あんなにお二人は、昔から睦まじくていらっしゃったではありませんの!
ああぁ、申し訳ございません、皇后陛下! わたくしは、わたくしは――姫様の教育を、間違えてしまったようです……! あああぁあ、ああぁあぁ……!!」
現場に同席していた、姉のような存在の親族でもある侍女ユリエッタは、ゆるゆると首を振りながら言った。
「言葉を飾らずに申し上げれば『最悪』だと思います、姫様……。本当に、どうしてなんですの? アーデルシュタイン侯とは、あんなに仲良くされていて、お互いに慈しんでおられたではありませんか……」
我が母上たる皇后陛下は、こまったように微笑みながら妾を窘めた。
「アナったら……そんなことを言うなんて、ひどくってよ。ユリウス君に、きちんと誠意を尽くして謝っていらっしゃい」
帝国宰相アーベントロートは、深く眉間に皺を寄せながら言った。
「貴女は……全く。よりにもよって、何してくれてるんです?」
――といった具合に、妾は精神的にボッコボコにされ、打ちのめされた状態で、ユリウスが眠るベッドの横で椅子に座っていた。
彼が泊まる際によく貸している客室に、魔法で眠らされたユリウスは運ばれた。先ほどまで医務官や魔法検査官らが来ていて、ユリウスの体調を確認していたところである。
今は、妾一人が彼のそばについていた。少しでも早く、彼に謝りたかった。
「ユリウス……」
彼の手をとり、両手で握って、祈るように額を寄せる。
「本当にすまなかった。謝らせてくれ……もう、あんなこと二度と言わないから……」
そう呟いていると、ユリウスから呻き声が聞こえた。
「う……」
妾は、ぱっと目をあげる。
「ユリウス?」
「う、……んん……アナスタシア、様……?」
彼の目蓋がゆっくりと開かれ、琥珀色の瞳が露わになった。今は、その焦点も正しく妾に合っている。
「ユリウスッ……!」
皇帝となる者は、不用意に泣いてはならない。そう教わっているが、涙があふれるのを止められなかった。
「すまない、ユリウスッ……! すまなかった。妾が悪かった。謝る、謝るからっ……婚約破棄は……それだけは、しないでくれ!」
声を震わせながら妾はそう懇願し、彼に向かって深く頭を下げた。
『これでは婚約破棄と言われても仕方がない』
ベルンシュタイン夫人から言われ、妾は大きく動揺していた。
ユリウスとの婚約が無くなるだなんて、考えたこともなかった。
妾の夫は、絶対にユリウスでなければ嫌だ。
涙がぽろぽろと落ち、スカートに染みをいくつも作る。
泣き落としなんぞに頼りたくはなくとも、悲しくてたまらなかった。
「……婚約破棄だなんて、まさか」
幸いにも、ユリウスは身を起こしながら優しい声でそう言い、彼の右手をつかんだままの妾の手に、左手をそっと添えた。
「私から婚約破棄を言い出すことなど、ありえませんよ。アナスタシア様」
「……ほんとう、か?」
妾が顔をあげる。目隠しを外して素顔を晒し、べそべそと泣いている妾は、ひどい顔をしていただろう。
常より少し白い顔をしたユリウスは、いつものように優しく微笑み、ゆっくりと頷いた。
「ええ」
「よ、…かった…!」
妾はおもわず、ユリウスに飛びつくようにして抱きついた。
幼い頃はよくこうしていたが、「淑女がみだりに抱きつくのは行儀が悪い」と教わってから、やらなくなっていた。
妾は、己の浅はかな行動の理由を――彼が目覚めるまでの間ずっと考え、整理していた心の内を、この場で打ち明けることにしていた。
「あのな、ユリウス。妾は――妾は本当は、ずっとそなたのことが大好きだ。はじめて出会ったときから、ずっと、一番な。
だがそなたは、妾によく嘘をつくだろう。好きじゃないものを好きだと言ったり、楽しくないのに楽しいと言ったりして。それに、いつも何かを隠している――妾との間に、壁を作っている。
それで――わからなくなったのだ。妾はそなた個人のことが好きでも、そなたはそうではないかもしれないと。
それに、政略結婚の夫婦には愛がないと、よく言われるだろう? それで、互いに別の愛人を持つのだと。
妾たちもそうなるのかと思うと、苦しくて。
そう決めつける前に、そなたに確かめるべきだった。――だが、怖かったんだ。
そなたが好きだから、『妾個人のことが好きか?』と尋ねて、もしも『ちがう』と言われたら――あるいは『好き』と返されても嘘だったらと思うと、胸が苦しくなった。
レ――ごほん。例の人物に告白を受けたとき、思ったんだ。もしもそなたに好かれていなかったとしても、他の誰かが妾個人を心から愛してくれるなら、平気かもしれない、と。
そなたを傷つけてしまったのは、妾が臆病だったせいだ。だから、本当に――本当に、すまない。申し訳なかった。
どうか、許してほしい。これからも妾と一緒にいてくれるなら、償うために、そなたを癒やすために、なんでもするから」
そう語ったあと、妾はユリウスから離れ、彼と見つめあえる距離まで身を引いた。
ベッドに横座りの姿勢となり、両手をそれぞれユリウスの手と軽く握り合う。
「……なんでも、してくださるのですか?」
ユリウスが、軽く頭を横に傾けながら尋ねる。
妾は、うんうんと何度も頷いた。
思えば、いつも妾の要望をユリウスに叶えてもらってばかりで、ユリウスの要望を妾が叶えたことはない。伝えられた覚えすら、ほとんどないのだ。
「それでは、まず……。私と、必ず結婚なさってください」
妾は、おもわず微笑みながら何度も頷いた。
「勿論だとも」
「それから、愛人も側室も、絶対に嫌です。私だけを唯一の相手としてください」
「うむ、勿論だ。そうする」
うんうんと頷く。
「私と、ずっと一緒にいてください」
「うむ!」
「私だけを愛してください」
「んん? ……う、うむ!」
いずれは皇帝として、すべての臣民を愛さねばならぬ立場なのだが……まあ、そういうものは除外と考えよう。
彼との仲直りは、順調に進んでいるように思われた。……なのになぜか、ユリウスの目がまた光を失い、昏い深淵を湛え始める。
「ユリウス…?」
「あなた様に触れたいです」
「お、おう。いいとも」
「抱きしめたい。美しい御髪に触れて、頬ずりしたい。かぐわしい香りを嗅ぎたいです」
「んんっ…ま、まあ…いいぞ」
妾が許可を出すと、ユリウスは妾を抱き寄せ、膝の上にのせた。
それから、妾の髪を一房手に取り、宣言どおり弄りはじめる。指の腹で感触を楽しむように滑らせると、次に顔へ寄せ、本当に髪に頬ずりした。
……なんだろう。とてもいたたまれなくて、顔が熱くて、恥ずかしい。
侍女のやる気に任せきりで、妾自身は髪の手入れに拘ったことがなかった。今度から、ちゃんと意識せねば……。
髪に満足したのか、ユリウスが髪から手を離す。
ほっとしたのも束の間、すぐユリウスに抱きしめられた。彼の顔が肩口に触れ、首元に呼気が触れてゾクリとする。
「ひゃっ…」
妾は思わず驚きに声をあげた。
だが、ユリウスは構わず、その姿勢のまま深く息を吸い込み、そして吐き出した。
……匂いを嗅いでいる?
気づいたとき、また恥ずかしさで顔が熱くなった。そして、自分が汗臭くはないかと気になって仕方がなくなった。
魔法暴走の後始末などでバタバタして、楽な室内ガウンに着替えてはきたが、入浴はまだしていない。
「ゆ、ユリウしゅ、あの…臭くないか…?」
尋ねるも、かんでしまった。
ユリウスは気にした様子もなく、嬉しそうな笑みを浮かべたまま頭をゆるゆると振った。
「いいえ。とっても、良い香りです…花のような、甘い果実のような…いつまでも嗅いでいたいほど、いい匂いで…」
いつまでも嗅がれては、そろそろこちらの心臓がもたない。
妾は、ユリウスの気を逸らすことにした。
「そ、れよりも! 他には無いのか? 妾に、やってほしいこと――そなたがしたいことでも構わないが」
そう尋ねると、狙い通り、ユリウスは妾から顔を離し、妾と見つめあえる距離まで引いてくれた。
なぜか、ユリウスの目は昏いままだ。心底うれしそうに、恍惚とした表情で笑っていて――あまり見覚えのない顔をしていた。
なんといえばいいのか――そう、ねっとりと纏わり付くような……執着? を、感じさせる表情だった。
「では――アナスタシア様、私だけを見てください」
「う…ん??」
どういった範囲で?
「私だけに触れて。私だけにお姿を見せて。私だけと話してください」
「……え、っと」
「私の他の誰にも触れさせないで。誰にも微笑まないで。私以外の名を呼ばないでください。私だけのために歌ってください。私だけに舞ってください。私だけに涙を見せて、私だけに笑ってください。私だけを頼ってください。私だけに弱音を吐いてください。私だけを叱って、私だけを褒めてください。他の誰かの視線を受けないで。誰かの手に触れられないで。誰かに優しくしないで。私だけを記憶してください。私の名だけを呼んでください。私にだけ与えてください。私からだけ受け取ってください。健やかなときも病めるときも死ぬときも死んだ後も私と、私だけと一緒にいてください。私の夢だけを見てください。夢でも私だけに会ってください。私だけと――」
「ちょ、ちょっと…ちょっと、待ってくれ」
妾はおもわず止めた。ユリウスは、素直に口を閉ざす。
妾は思考を巡らせ、次の言葉を考えあぐねた。
「……条件。条件の交渉を、求める!」
苦し紛れに、妾はそう要求した。
妾は、ここにきて漸く、ユリウスが隠したかったことの一端を理解した気がした。




