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妾の顔を見た男は、みな狂う。ただ一人、婚約者を除いて  作者: 佐藤みさき
第三章 氷雪の王 ユリウス

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条件の交渉を求める

 皇室典礼院長でありマナー講師でもあるベルンシュタイン夫人は、顔を真っ青にして悲鳴をあげ、嘆きながら妾(わらわ)に苦言を呈した。


「なぜ――姫様、どうして――なんということを! どうしてですの!? あんなに……あんなにお二人は、昔から睦(むつ)まじくていらっしゃったではありませんの!

 ああぁ、申し訳ございません、皇后陛下! わたくしは、わたくしは――姫様の教育を、間違えてしまったようです……! あああぁあ、ああぁあぁ……!!」


 現場に同席していた、姉のような存在の親族でもある侍女ユリエッタは、ゆるゆると首を振りながら言った。


「言葉を飾らずに申し上げれば『最悪』だと思います、姫様……。本当に、どうしてなんですの? アーデルシュタイン侯とは、あんなに仲良くされていて、お互いに慈(いつく)しんでおられたではありませんか……」


 我が母上たる皇后陛下は、こまったように微(ほほ)笑(え)みながら妾(わらわ)を窘(たしな)めた。


「アナったら……そんなことを言うなんて、ひどくってよ。ユリウス君に、きちんと誠意を尽くして謝っていらっしゃい」


 帝国宰相アーベントロートは、深く眉(み)間(けん)に皺(しわ)を寄せながら言った。


「貴女(あなた)は……全く。よりにもよって、何してくれてるんです?」


 ――といった具合に、妾(わらわ)は精神的にボッコボコにされ、打ちのめされた状態で、ユリウスが眠るベッドの横で椅子に座っていた。

 彼が泊まる際によく貸している客室に、魔法で眠らされたユリウスは運ばれた。先ほどまで医務官や魔法検査官らが来ていて、ユリウスの体調を確認していたところである。

 今は、妾(わらわ)一人が彼のそばについていた。少しでも早く、彼に謝りたかった。


「ユリウス……」


 彼の手をとり、両手で握って、祈るように額を寄せる。


「本当にすまなかった。謝らせてくれ……もう、あんなこと二度と言わないから……」


 そう呟(つぶや)いていると、ユリウスから呻(うめ)き声(ごえ)が聞こえた。


「う……」


 妾(わらわ)は、ぱっと目をあげる。


「ユリウス?」

「う、……んん……アナスタシア、様……?」


 彼の目蓋がゆっくりと開かれ、琥(こ)珀(はく)色(いろ)の瞳が露(あら)わになった。今は、その焦点も正しく妾(わらわ)に合っている。


「ユリウスッ……!」


 皇帝となる者は、不用意に泣いてはならない。そう教わっているが、涙があふれるのを止められなかった。


「すまない、ユリウスッ……! すまなかった。妾(わらわ)が悪かった。謝る、謝るからっ……婚約破棄は……それだけは、しないでくれ!」


 声を震わせながら妾(わらわ)はそう懇願し、彼に向かって深く頭を下げた。


『これでは婚約破棄と言われても仕方がない』


 ベルンシュタイン夫人から言われ、妾(わらわ)は大きく動揺していた。

 ユリウスとの婚約が無くなるだなんて、考えたこともなかった。

 妾(わらわ)の夫は、絶対にユリウスでなければ嫌だ。

 涙がぽろぽろと落ち、スカートに染みをいくつも作る。

 泣き落としなんぞに頼りたくはなくとも、悲しくてたまらなかった。


「……婚約破棄だなんて、まさか」


 幸いにも、ユリウスは身を起こしながら優しい声でそう言い、彼の右手をつかんだままの妾(わらわ)の手に、左手をそっと添えた。


「私から婚約破棄を言い出すことなど、ありえませんよ。アナスタシア様」


「……ほんとう、か?」


 妾(わらわ)が顔をあげる。目隠しを外して素顔を晒(さら)し、べそべそと泣いている妾(わらわ)は、ひどい顔をしていただろう。

 常より少し白い顔をしたユリウスは、いつものように優しく微(ほほ)笑(え)み、ゆっくりと頷(うなず)いた。


「ええ」

「よ、…かった…!」


 妾(わらわ)はおもわず、ユリウスに飛びつくようにして抱きついた。

 幼い頃はよくこうしていたが、「淑女がみだりに抱きつくのは行儀が悪い」と教わってから、やらなくなっていた。


 妾(わらわ)は、己の浅はかな行動の理由を――彼が目覚めるまでの間ずっと考え、整理していた心の内を、この場で打ち明けることにしていた。


「あのな、ユリウス。妾(わらわ)は――妾(わらわ)は本当は、ずっとそなたのことが大好きだ。はじめて出会ったときから、ずっと、一番な。

 だがそなたは、妾(わらわ)によく嘘(うそ)をつくだろう。好きじゃないものを好きだと言ったり、楽しくないのに楽しいと言ったりして。それに、いつも何かを隠している――妾(わらわ)との間に、壁を作っている。

 それで――わからなくなったのだ。妾(わらわ)はそなた個人のことが好きでも、そなたはそうではないかもしれないと。

 それに、政略結婚の夫婦には愛がないと、よく言われるだろう? それで、互いに別の愛人を持つのだと。

 妾(わらわ)たちもそうなるのかと思うと、苦しくて。

 そう決めつける前に、そなたに確かめるべきだった。――だが、怖かったんだ。

 そなたが好きだから、『妾(わらわ)個人のことが好きか?』と尋ねて、もしも『ちがう』と言われたら――あるいは『好き』と返されても嘘(うそ)だったらと思うと、胸が苦しくなった。

 レ――ごほん。例の人物に告白を受けたとき、思ったんだ。もしもそなたに好かれていなかったとしても、他の誰かが妾(わらわ)個人を心から愛してくれるなら、平気かもしれない、と。

 そなたを傷つけてしまったのは、妾(わらわ)が臆病だったせいだ。だから、本当に――本当に、すまない。申し訳なかった。

 どうか、許してほしい。これからも妾(わらわ)と一緒にいてくれるなら、償うために、そなたを癒やすために、なんでもするから」


 そう語ったあと、妾(わらわ)はユリウスから離れ、彼と見つめあえる距離まで身を引いた。

 ベッドに横座りの姿勢となり、両手をそれぞれユリウスの手と軽く握り合う。


「……なんでも、してくださるのですか?」


 ユリウスが、軽く頭を横に傾けながら尋ねる。

 妾(わらわ)は、うんうんと何度も頷(うなず)いた。

 思えば、いつも妾(わらわ)の要望をユリウスに叶(かな)えてもらってばかりで、ユリウスの要望を妾(わらわ)が叶(かな)えたことはない。伝えられた覚えすら、ほとんどないのだ。


「それでは、まず……。私と、必ず結婚なさってください」


 妾(わらわ)は、おもわず微(ほほ)笑(え)みながら何度も頷(うなず)いた。


「勿(もち)論(ろん)だとも」


「それから、愛人も側室も、絶対に嫌です。私だけを唯一の相手としてください」

「うむ、勿(もち)論(ろん)だ。そうする」


 うんうんと頷(うなず)く。


「私と、ずっと一緒にいてください」

「うむ!」

「私だけを愛してください」

「んん? ……う、うむ!」


 いずれは皇帝として、すべての臣民を愛さねばならぬ立場なのだが……まあ、そういうものは除外と考えよう。

 彼との仲直りは、順調に進んでいるように思われた。……なのになぜか、ユリウスの目がまた光を失い、昏(くら)い深(しん)淵(えん)を湛(たた)え始める。


「ユリウス…?」

「あなた様に触れたいです」

「お、おう。いいとも」

「抱きしめたい。美しい御(お)髪(ぐし)に触れて、頬(ほお)ずりしたい。かぐわしい香りを嗅ぎたいです」

「んんっ…ま、まあ…いいぞ」


 妾(わらわ)が許可を出すと、ユリウスは妾(わらわ)を抱き寄せ、膝の上にのせた。

 それから、妾(わらわ)の髪を一房手に取り、宣言どおり弄(いじ)りはじめる。指の腹で感触を楽しむように滑らせると、次に顔へ寄せ、本当に髪に頬(ほお)ずりした。

 ……なんだろう。とてもいたたまれなくて、顔が熱くて、恥ずかしい。

 侍女のやる気に任せきりで、妾(わらわ)自身は髪の手入れに拘(こだわ)ったことがなかった。今度から、ちゃんと意識せねば……。

 髪に満足したのか、ユリウスが髪から手を離す。

 ほっとしたのも束(つか)の間(ま)、すぐユリウスに抱きしめられた。彼の顔が肩口に触れ、首元に呼気が触れてゾクリとする。


「ひゃっ…」


 妾(わらわ)は思わず驚きに声をあげた。

 だが、ユリウスは構わず、その姿勢のまま深く息を吸い込み、そして吐き出した。


 ……匂いを嗅いでいる?


 気づいたとき、また恥ずかしさで顔が熱くなった。そして、自分が汗臭くはないかと気になって仕方がなくなった。

 魔法暴走の後始末などでバタバタして、楽な室内ガウンに着替えてはきたが、入浴はまだしていない。


「ゆ、ユリウしゅ、あの…臭くないか…?」


 尋ねるも、かんでしまった。


 ユリウスは気にした様子もなく、嬉(うれ)しそうな笑みを浮かべたまま頭をゆるゆると振った。


「いいえ。とっても、良い香りです…花のような、甘い果実のような…いつまでも嗅いでいたいほど、いい匂いで…」


 いつまでも嗅がれては、そろそろこちらの心臓がもたない。

 妾(わらわ)は、ユリウスの気を逸(そ)らすことにした。


「そ、れよりも! 他には無いのか? 妾(わらわ)に、やってほしいこと――そなたがしたいことでも構わないが」


 そう尋ねると、狙い通り、ユリウスは妾(わらわ)から顔を離し、妾(わらわ)と見つめあえる距離まで引いてくれた。

 なぜか、ユリウスの目は昏(くら)いままだ。心底うれしそうに、恍(こう)惚(こつ)とした表情で笑っていて――あまり見覚えのない顔をしていた。

 なんといえばいいのか――そう、ねっとりと纏(まと)わり付(つ)くような……執着? を、感じさせる表情だった。


「では――アナスタシア様、私だけを見てください」

「う…ん??」


 どういった範囲で?


「私だけに触れて。私だけにお姿を見せて。私だけと話してください」

「……え、っと」

「私の他の誰にも触れさせないで。誰にも微(ほほ)笑(え)まないで。私以外の名を呼ばないでください。私だけのために歌ってください。私だけに舞ってください。私だけに涙を見せて、私だけに笑ってください。私だけを頼ってください。私だけに弱音を吐いてください。私だけを叱って、私だけを褒めてください。他の誰かの視線を受けないで。誰かの手に触れられないで。誰かに優しくしないで。私だけを記憶してください。私の名だけを呼んでください。私にだけ与えてください。私からだけ受け取ってください。健やかなときも病めるときも死ぬときも死んだ後も私と、私だけと一緒にいてください。私の夢だけを見てください。夢でも私だけに会ってください。私だけと――」

「ちょ、ちょっと…ちょっと、待ってくれ」


 妾(わらわ)はおもわず止めた。ユリウスは、素直に口を閉ざす。

 妾(わらわ)は思考を巡らせ、次の言葉を考えあぐねた。


「……条件。条件の交渉を、求める!」


 苦し紛れに、妾(わらわ)はそう要求した。


 妾(わらわ)は、ここにきて漸(ようや)く、ユリウスが隠したかったことの一端を理解した気がした。

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