本当に?
自室に戻り、姿見の前に立ってみる。
顔の上半分を黒布に覆われた娘が、こちらを見返していた。これでは、妾の顔が分からぬ。
次期皇帝の顔が誰にも分からぬというのは、それはそれで大問題な気がするのだが。
まあいい。それより、だ。
妾は、指先で目隠しの縁をなぞりながら、ユリウスのことを考えていた。
***
妾がユリウスと初めて会ったのは、互いに6つの時である。
魔導通信網を通じて送られた幻影肖像を見て、妾ははじめて『見目うるわしい男子』のなんたるかを知ったと思う。
インクをひとしずく水に落としたような濃く深い青灰の黒髪と、乾いた森に沈む陽光のような琥珀色の瞳と、朝霧の中に立つ彫像のような白い肌。
謁見の間にやってきた彼は、幻影肖像そのままの姿で、しかしどこか緊張した面持ちで、落ち着かなさげにソワソワとしていた。
妾と視線が交わった瞬間、彼は目をまんまるに見開き、口を半開きにして、そのまま凍りついてしまった。緊張が限界を超えてしまったのだろう。妾も、儀礼式典に慣れぬうちはそうだった。無理もない。
妾は玉座の隣席から飛び降り、彼の眼前に駆け寄った。はやくこの者と遊びたかったのだ。
「わらわの名は、アナスタシア・エルスティナ・フォン・グランツェルリヒ。皇帝マクシミリアンが一の皇女、……である。おあいできて、いや、あえてうれしい……く、思う。ユリウス、……どの」
まちがえた。かんだ。恥ずかしい。
だが動揺はしない。間違いは誰にでもある――それが妾の経験則だった。
「ぁ、……ぼく、いや、わたし、……も、うれし、うれしく、……ぅ……」
ユリウスの顔がみるみる紅潮し、耳まで真っ赤に染まる。
なんであろう、妾よりかみっかみで動揺する彼をみていると、心があたたかくなった。
よいよい。わかるぞ、妾もよくそうなったものだ。こればかりは、場数を踏むしかない。
それに、妾が今ほしいのは、正確なマナーではないのだ。
「ユリウス、おそとで一緒にあそぼう!」
***
「ウマすき? この子、リュシエール! わらわのウマ! 6才のおたんじょうびに父上からいただいたの、白くてキレイでしょ?」
「はい」
「ここ、バラ庭園! 迷路になっている! ここで鬼ごっこすると楽しいぞ。鬼ごっこはすき?」
「はい」
「おなかがすいたな。おやつ食べる? わらわザッハトルテが食べたい。ザッハトルテすき?」
「はい」
こんな調子で、ユリウスは何を聞いても「はい」としか答えないものだから、妾は彼の気持ちがよく分からなかった。
バルコニーに用意されたザッハトルテを、妾は幸せな気持ちで頬張った。
ユリウスも気に入ってくれただろうかと見ると、彼は、紅茶にもザッハトルテにも手をつけていなかった。読めない表情のまま、妾をじっと見つめている。
……空腹ではなかったのだろうか? それとも、本当はザッハトルテがきらいだった?
「ユリウス、」
妾は、気になっていたことを尋ねることにした。
「わらわたち、大人になったらけっこんするらしい。わらわがおよめさんになるのって、どう思う?」
「え、……」
ユリウスはそのまま絶句した。彼にはまだ知らされていなかったらしい。
「それ、は……」
ぐるぐると目をあちこちに泳がせ、言葉を選ぶように逡巡して、彼は言った。
「……たいへん、うれし、光栄に、ぞんじます……」
そうして、目をふせた。
本当に?
妾には、ユリウスの考えが分からなかった。思えば、彼の立場ではそう言うしかないのかもしれない。
これは、せいりゃくけっこん、というやつなのだ。メイドたちが話しているのを盗み聞いたことがあった。
たとえイヤだったとしても、皇女である妾が望むのであれば、臣下の家の出であるユリウスは従うしかないのだ。
妾はそれ以上質問するのをやめ、ザッハトルテを頬張ることに集中した。
なんだか、味気なくなった気がした。
***
それから10年。
帝都から魔導馬車でも片道5日の距離にあるヴァイセンドルフ領で暮らす彼とは、そうしょっちゅう会うことはできなかった。
その間、妾は手紙を送りつづけた。日々の出来事を分かち合い、互いへの理解を深めるために。少なくとも、妾はそうしようとした。
妾が送りすぎるせいか、返事がくるのは5通に一度ほどだった。
あるとき妾は、彼に一冊の本を貸した。侍女に教えてもらった恋愛小説で、劇にもなっている、市井で人気の作品だった。
「アナスタシア様がお好きなものを、私も好きになります」
彼はそう言って微笑み、本を受け取っていった。
それから10日もたたないうちに、本は送り返されてきた。短い手紙とともに。
『とても面白かったです』
……本当に?
証拠もなく疑うのはよくないとは思う。だが、妾は考えてしまった。
彼が帰るのに5日。送り返された本が皇宮に届くのに5日。つまりユリウスは、自宅に着く前に、この本を送り返してきたのだ。
馬車移動はヒマであろうし、移動しながら読破したのだろう。しかし何だか、本を楽しんだというより、さっさと片付けてしまわれたように感じた。
ユリウスは、妾と心を通わせるつもりがないのかもしれない。
うすうす気づいていたことだが、あらためて認識すると、もの悲しい気持ちになった。しかし、それならそれで、仕方ない。
ユリウスとの結婚は妾の即位にあたって必要なものだし、彼自身も誠実な努力家だ。たとえ心を通わせるつもりはなくとも、この政略結婚を成功させたいという一点において、我々の意見は一致しているはず。
それで十分、と割り切るしかない。
愛なき政略結婚で結ばれた夫婦は、互いに愛人をもつことが多いという。ユリウスもいずれ、妾と結婚したうえで、愛する人を他に持つのかもしれない。
もしそうなったとしても、彼が皇配をきちんと担ってくれる限り、妾は許そう。許さねばなるまい。
そんな光景を想像するだけで、妾の胸はシクシクと痛んだ。
***
「彼も……妾を、好きになってくれたらいいのにな」
姿見の前で、妾はぽつりとこぼした。
ぽろぽろとあふれてきた涙が、頬をつたう前に、黒い布地に吸い込まれていく。
……なるほど。これは、思ったより便利な代物かもしれん。




