私だけに宛てられた手紙
【Side: ユリウス】
ヴァイセンドルフ領に許婚の正式告知が届くのとほぼ同時に、アナスタシア様から私へのお手紙も届いた。
生まれて初めての、私だけに宛てられた手紙だった。
当時、私は読み書きもままならなかったので、代わりに使用人に読んでもらった。
アナスタシア様のお手紙には、彼女の直筆で綴られた、私へのあたたかな想いが込められていた。
子供らしく奔放な文字ながら、大きさなどは揃っていて、子供の字にしては読みやすい筆跡であった。
会えて嬉しかった。ぜひまた一緒に遊びたい。見せたいものが沢山ある。
アナスタシア様の、慈愛に満ちた、あたたかい言葉。
私だけに向けられた、初めての愛。
聞いているうちに目頭が熱くなり、湿ったものが溢れた。自分にはまだ、流せる涙が残っていたのかと驚いた。
絵本を読んでくれと強請る子供のように、私は使用人たちに、何度も何度も、アナスタシア様のお手紙を読み上げてほしいと頼んだ。
自分でアナスタシア様のお手紙を読めるようになりたくて、このころ、急速に読み書きができるようになった記憶がある。
読むこともままならないので、当然、書くことはもっとできなかった。
それでも、どうしても返事を書きたくて、使用人たちから必死で教わって、手紙を書いた。
言葉をうまくまとめられず、見苦しい字ばかり書いてしまい、何枚も便せんを捨てた。
そうして何日も時間がかかっているうちに、アナスタシア様から次々にお手紙が届いた。その次も、そのまた次のお手紙も。
私がなかなか返事を寄越さなくて、アナスタシア様を失望させているのではないかと不安になった。
ただ、使用人によると、そもそも手紙が一方に届くまでに4〜5日程度はかかるはずで、アナスタシア様がお手紙を沢山書かれているだけだとのことで、少し安心した。
アナスタシア様のお手紙は、だいたい2日に1通のペースで届いていた。
アナスタシア様のお言葉はどれもあたたかくて、私に幸せをくれた。読んでいると、体がぽかぽかと温まる心地さえした。
日に日に山を成していく愛の手紙を、私は大切にしまって、何度も読み返した。
使用人たちは、あまりの数に苦笑していたが、私にとっては、1通1通すべてが無比の宝物になった。
アナスタシア様と交わす、お互いの他愛のない日常。相手への想い。
彼女との文通は、生きる活力となって私を支えてくれた。
アナスタシア様のご加護は、愛にあふれたお手紙のみに留まらなかった。
私が、アナスタシア様の許婚として正式に決まった、という通達が皇宮から届いてから、【父上】が怒り出すことがなくなったのである。
正確には、私の言動ないし行動に不満を感じた様子は見せるものの、怒鳴りつけることを明らかに我慢して、飲み込むようになっていた。
どうしてなのか気になり、世話係の従僕に尋ねると、彼は声をひそめて教えてくれた。
「ユリウス坊ちゃまは、将来、皇帝陛下の夫――すなわち、皇配殿下となられることに決まりましたから。つまり、今のご当主様――辺境伯閣下よりも、高い地位をいずれお持ちになるわけです」
成る程、と思った。
先々、私が自分より上の存在となってしまうので、一転して媚を売る――にすら満たないものの、今更、やたらと威嚇するのは辞めたのか。
本当に、今更だが。
それから、年に一度か二度、私は【父上】とともに帝都に赴き、ヴァイセンドルフ家のタウンハウスで1ヶ月程度を過ごすことになった。
【父上】と二人にされたのは最初だけで、以降、「父親として同行してきた」という体のみ彼は装い、私たちは別行動をとるようになった。
私は侍従とともに皇宮へ登城し、アナスタシア様と過ごす。【父上】は、皇后陛下に拝謁するときのみ皇宮に登城し、用事があると嘯いて先に皇宮を出る。
タウンハウスの家令に聞いたところによると、中央貴族の家にあちこち赴いたり、ここぞとばかりに帝都の流行品の買い物で散財したり、毎晩のように夜会に出たりして、彼は彼で帝都を楽しんでいるそうだ。
なんでも、私がアナスタシア様の婚約者となったことで、【父上】に取り入ろうとする貴族たちが招待状をこぞって送ってきているらしい。
そして夜会に出れば、周り中からチヤホヤおだてられるので、【父上】はすっかり天狗になり、衣装やアクセサリーを凝りだしているとのこと。
真実をすべて暴露して、梯子を外してやろうか、と思わなくはなかった。
だが、それでアナスタシア様との婚約が解消されでもしたら元も子もない。
私はただ、アナスタシア様のおそばにいられる未来だけを見据え、精進すべきだ。そう考え、呑み込むことにした。
***
アナスタシア様と過ごす時間は、人生で最も幸福な時間だ。
あるとき、アナスタシア様は、私をお父君に紹介してくださった。
アナスタシア様がお生まれになった頃から病床にあるという、グランツェルリヒ帝国の皇帝陛下である。
私は、アナスタシア様に手を引かれ、お父君の寝室に連れて行かれた。
お父君は、青白い顔色をして、痩せ細った体を、天蓋付きの豪奢なベッドに横たえていた。シーツの上に流れる頭髪は金色で、アナスタシア様の髪色は父親譲りなのだと知った。
私たちが入室したことに気づくと、彼は、ベッドの操作盤に手を触れ、魔導具が組み込まれているらしいベッドの上半分を立ち上がらせた。
ベッドに持ち上げられ、皇帝陛下の上半身が起こされる。
彼の目がゆっくりと開かれる。彼の瞳は、晴天のような薄い水色をしていた。
「余のかわいいアナスタシア…それに、きみはユリウス君だな。はじめまして。余は、アナスタシアの父、マクシミリアンという」
アナスタシア様は、慣れた様子でベッドのそばに小走りで近づき、父親の痩せた手を両手で握って、彼を大切そうに見つめた。
私は、礼節に則って右手を胸に当て、深々とお辞儀して挨拶を返す。
「お初にお目にかかり、光栄に存じます。ユリウス・カスパール・フォン・ヴァイセンドルフにございます」
「あぁ、よい、よい。そう硬くなるな…いずれ、そなたも余の息子になるのだからな」
皇帝陛下が私を手招きした。私は、なにをされるのだろうと訝しみながらも、指示に従ってベッドの脇に近づく。
ふわり、と、彼の温かい手が、私の頭をやさしく撫でた。
「いい子だ。アナスタシアのことは、好きかい?」
はじめてのことに動揺しながらも、そう問われ、私は隣のアナスタシア様を見た。
彼女は、照れくさそうに頬を染め、さっと私から目をそらす。愛らしいお姿だった。
「はい。すき…です」
真実なのだが、こうして本人と父親の目の前で言うのは気恥ずかしく、私も顔が熱くなる感覚をおぼえた。
「そうか、そうか。余は、この体たらくで、皇帝を継ぐと言うてくれた我が娘アナスタシアに、なにも教えてやれぬ。この子に、ほとんど何もしてやれぬ。
どうか、余の分も、この子をよろしく頼む」
私は、あまりにも自分の父親と違いすぎる彼の姿勢に、驚きを隠せなかった。
なんという包容、なんという愛。
今頃、元気いっぱいに帝都で遊び回っている【父上】には、この人の万分の一でも父親らしい部分があるだろうか。
きっと、ない。
私もいずれ、呼んでもいいのだろうか。この方を――皇帝陛下を、父上、と。
「お父様、妾なら大丈夫です。アーベントロートはいじわるだけど、妾、一所懸命に勉強していますから」
「おぉ、そうか、そうか。そうだな、アナスタシアなら、きっと大丈夫だ」
私を撫でていた手がアナスタシアのほうに伸び、彼女の頬を慈しむように撫でる。
アナスタシアは、うれしそうに微笑んでいた。皇帝は彼女を愛していて、彼女もまた父皇帝を愛しているのだと、この短いやりとりだけでわかった。
皇后陛下もまた、愛情深い母親であった。アナスタシア様をけっして甘やかさず、時には厳しく接することもあるが、アナスタシア様をいつも気にかけ、時間さえあれば関わろうとなさっていた。
彼女もまた、私に優しく接してくれた。そして、皇帝陛下と同じように、アナスタシア様をくれぐれもよろしく頼むとおっしゃった。
「アナスタシアをもっと構ってやりたいのだけれど、公務を二人分こなさなくてはならないから、ままならないの。
ユリウス君、どうか、どうかアナスタシアをよろしくね。あの子と沢山遊んでやって。そして、道を踏み外しそうになったら、手を引いて戻してやってほしいの。
あの子は、なんでもすぐに覚えて、人よりもすごいことを沢山やってみせるけれど、その分、反動のように大きな失敗をしてしまうわ。危なっかしくて、心配なの。
苦労をかけるけれど、どうかよろしくね」
「御意にございます」
私は、深々と礼をして応じた。
もとより、アナスタシア様と過ごす時間は、私にとって何よりの幸せ。苦労など、あろうはずもなかった。




