無価値な存在
【Side: ユリウス】
アナスタシア様――私の光。私の太陽。私にとって唯一の、希望。
金色の髪は、まるで天然の冠のように光を反射して輝いていて。深い湖のように鮮やかなサファイア・ブルーの瞳は、興味深そうに世界を映し出していて。その素肌は、積もったばかりの新雪のように白く透き通っている。
名匠が手がけたフレイヤ像よりも、遙かに美しく神々しい面差しを持つアナスタシア様。この残酷で理不尽な世界の中でただひとり、私に優しい言葉をかけ、美しく笑い、私の存在に価値を与えてくださったアナスタシア様。
彼女の隣に在れるならば――彼女が側にいてくれるなら、愛してくれるのなら、どんなに苦しいことでも耐えられた。どんなことだってできた。
なのに。
「『操はやれないし結婚もできないが、それでも良いなら恋人になるか?』と尋ねたのだ。いわゆる愛人というやつだな」
全身から血の気が引いて、視界が白黒に変わった。意識が遠のいていく。
北部ヒグマに後れをとって吹き飛ばされ、岩に強く叩きつけられたときだって、こんなにひどい状態にはならなかった。
足元がガラガラと崩れてしまったような――奈落へ落ちていく、絶望だった。
アナスタシア様を狙いそうな貴族はすべてチェックし、必要であれば牽制してきた。夜会では、接触されないよう、それとなく彼女との間に入り、時には彼女の進路を誘導し、避けてきた。次期皇帝の婚約者の座を狙う連中から幾度となく決闘を申し込まれ、その都度、相手を叩きのめしてきた。
でも、まさか、平民がアナスタシア様のお心を掴むだなんて。どうして。なぜ。いったい、どんな奴が?
お尋ねしても、アナスタシア様は、その者について教えてくださらない。相手を庇っているのだ。
それほどまでに、その者のことを……?
なぜ? その者は、あなた様がお好きだと仰ってくれた、この顔よりも美しい顔を持っているのですか。その者は、私よりも強いのですか。賢いのですか。
私だって、あなた様を愛しているのに! 私には、あなた様しかいないのに。
どうして。なぜ。なんで……!
いやだ。
いやだいやだいやだいやだいやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ、いやだいやだ、いやだ、いやだ。
全身が、氷柱で貫かれたように冷たい。さむい。凍えてしまう。
ふと気づけば、目の前が、皇宮の一室ではなくなっていた。
そこは、うんざりするほどに見慣れた――ヴァイセンドルフ領本邸の離れにあった、私の“子供部屋”だった。
おもちゃひとつ、本一冊すらない、ベッドとテーブルとクローゼットがあるだけの部屋。使用人の部屋じみた、簡素な内装だった。小さな高窓の外では、真っ白な雪がしんしんと降り積もっている。暖炉の火はずっと消えたままで、温もりの欠片も残っていない。
目の前には、外側から鍵をかけられた、唯一の出口である扉。
「そんな……! どうして、なぜ、またここに」
私は扉に駆け寄り、ノブに手をかけて回そうとした。がちゃり、と、耳慣れた金属音が響くだけで、回らない。
異変は、場所だけではなかった。手が異様に小さい。それに、妙に目線が低い。小さな子供の手。子供の身長。
私は――無力な子供に戻って、また、ここに閉じ込められている?
寒さで体がふるえ、自分の肩を抱く。息を吐けば、室内なのに白い。
「さむい……」
こごえてしまう。またドアノブを回すが、ガチャガチャと音が鳴るだけ。
「たすけて! だれか!」
ドンドン、と扉を叩く。人が来る気配は、ない。
「ここから出して!」
何度も叩く。だが、助けが来ることはない。
助けが来ることなどないのだと、私は知っていた。
***
私は、無価値な存在だった。誰にも必要とされていない、要らない子供として生まれた。
物心ついてすぐに分かったことは、それだけだった。
私は、アナスタシア様との婚約が辺境伯家に打診されるまでの間、ほとんど人がこない離れの一室――外から鍵のかかる部屋で育てられていた。
たったひとり割り当てられていた世話係のメイドは、数日に一度やってきた。硬いパンと、野菜くずの浮いたスープの載ったトレーを、動物のエサでもやるように床に置く。ろくに食事を与えられなかった私は、いつもお腹がすいていて、飛びついて貪り食べた。あのメイドは、そんな私を、おもしろそうに眺めていた。
唯一自分の世話をしてくれるメイドを、私は、人の本能という呪いに従って、親として愛した。すがりつき、言葉にもならない呻き声で話しかけ、自分を見て貰おうとした。そんな私を、メイドは蹴りどかすようにして振り払い、扉に鍵をかけて私を閉じ込め、出て行った。
ヴァイセンドルフ領の冬は寒く、屋敷が雪に包まれると、部屋中が凍ったように冷たくなる。時々しか来ないメイドは、暖炉の薪も時々しか足さない。毛布に包まって暖をとろうとしても、寒さからは逃れられない。私は、ふしぎと凍死することなく、ただただ寒さに苦しみながら、またメイドが来る日を待って過ごしていた。
自分が貴族という“大切にされる人間”の一種だなどと、十歳くらいまで露知らず、思いも寄らなかった。聞いた後も、「そんなはずはない」という思いのほうが今なお強い。
なぜ私は、そのように扱われていたのか。なぜ、健在の、大貴族たる辺境伯夫妻の両親は、兄二人と違って、私をあれほど冷遇していたのか。
ありがちな、前妻や愛人の子だとか、不義の子や不吉な子であるとか、既に亡くなった母親の連れ子だとか、そういう理由では一切ない。普通に養育された二人の兄と同じく、私も、正真正銘ヴァイセンドルフ辺境伯夫妻の子だという。
ただ「三人目は女の子が欲しかった」のだそうだ。息子が三人もいたところで、嫡男のスペアには余分だし、補佐役にも余分だ。娘なら、かわいらしくて華があるし、つながりを強めたい下位貴族の家に嫁がせることもできたのに、と。
使用人たちが、そう立ち話をしているのを耳にした。本当にそれが理由なのかも、それだけが理由なのかも分からない。
確かだったのは、私の実の両親とされる人たちは、私の生き死にに興味がなかった、ということだけ。
転機が訪れたのは、私が五歳のときだった。とはいっても、当時の私は、自分の年齢も誕生日も知らなかったが。
突然、こわい雰囲気の大きな男性が現れ――これが私の【父上】だった――離れ屋敷の部屋から私を連れ出し、本邸に連れて行った。あれこれ話しかけられたが、何も分からず、何も答えられなかった。私に話しかける者も、私の話を聞く者もいなかったので、私は言葉を知らなかったのだ。
男は苛立ち、声をあらげた。恐ろしくて、私は慌てて物陰に隠れた。見知らぬ怒った男は、見知らぬ大人たちに宥められ、本邸のどこかに去った。見知らぬ大人たちは、やさしい声で私に語りかけ、私を物陰から引っ張り出した。
あの部屋から一度も出たことがなく、あの冷酷なメイド以外に他人を知らなかった私は、恐怖に震えていた。泣きたくても、涙はとっくの昔に枯れていた。声をあげれば「うるさい」と殴られ、いい結果にはならないと学習していた。
当時の私にとっては意外なことに、新しい環境は前のものより良かった。はじめて温かい湯で体を洗われ、清潔で新しい服を着せられて、おいしい食べ物も沢山もらえるようになった。それに、新しい部屋は、いつも暖炉に火が入れられていて、暖かかった。
見知らぬ大人たち――本邸の使用人たちは、私に親切に接し、私に関心を向けた。話しかけられ、言葉を与えられ、私のつたない言葉を聞いてもらえる。少しずつ言葉が分かるようになり、自分が置かれた状況も、少しずつ分かるようになっていった。
全貌が分かったのはずっと後のことだが、要するに、予想外の縁談が舞い込み、不要だったはずの私に利用価値が出てきたのだ。歴史的に例がほとんどない、女子の次期皇帝候補が立てられたためである。それも、ちょうど私と同い年の皇女殿下であった。
父は、あわよくばとっとと不要な三男を追い出してしまおうとしてか、婿入り先の縁談を打診して回っていた。言葉すら分からない私を『才気煥発』だなどと宣い、社交界で売り込みをかけていたのだ。
そうしたところ、皇室から縁談の申し入れが舞い込んできた。それで急遽、離れに追いやっていた私を本邸に連れ戻し、真っ当に面倒をみることにしたのだろう。
ところが、離れにいた私は、口も利けない、栄養失調で痩せていて小さく、虚ろな目をした子供だった。これでは、皇室への目通りはおろか、辺境伯家の令息として表に出せない。使用人から虐待されていた我が子を、様子を見もせず放置していた事実が外に知られれば、辺境伯家の立場を失うどころか、皇室から直々に処罰されかねないからだ。
自業自得もいいところだが、父は怒り心頭であった。
あのメイドがどうなったかは知らない。ただ、私は十分な食事を与えられるようになり、暖かい部屋で、私に語りかけたり関心を向けたりする大人が、いつもいる生活を送れるようになった。
ある程度肉をつけ、見映えがそう悪くなくなったころ、私の見合い用の幻影が撮られた。言葉も、ある程度は話せるようになったので、皇宮で話す必要最低限の文章を教え込まれた。
食事のマナー教育は間に合わず、一度【家族】と食堂で夕食を囲んだときには、私の食べ方が汚いと【父上】が怒りだしてしまった。それ以来、食堂には近づかず、【家族】と食事することを避けている。
食べ方が汚いので、皇宮で何か食べ物や飲み物を勧められたとしても、けっして手をつけるなと厳しく言われた。
そうして六歳になった後、私は【父上】たちに連れられ、皇宮への登城に赴いた。




