だれですか?
その日、ユリウスとの定期的な茶会は、昼下がりに《薔薇窓の間》で行うことにした。
時期は六月の上旬で、皇宮自慢の薔薇園は見頃の季節だ。天気がよければ薔薇園の東屋で開催しようと思っていたのだが、今日はあいにくの曇り空である。空気がしっとりと水気を含んでいるので、じきに雨も降り出すだろう。
《薔薇窓の間》は、皇宮の南棟にあり、庭園に面した小広間である。主に、皇族が私的な茶会や密談などを行うために使う部屋だ。
庭園側の壁には天井まである複数の大きなガラス窓が並んでおり、その中心に、薔薇を描いた大型の丸いステンドグラス窓があしらわれている。採光がよく、日中は柔らかい光が床に模様を描いて落ちる部屋だ。ガラス窓の下には薔薇の鉢植えが並べられており、本物の薔薇を楽しむこともできる。
ただ、鉢植えの一つの薔薇が数本、しおれて枯れつつあるのが見えた。メイドが見落としたのだろうか。少し気にはなったが、たかが花数本、見落とす日もあるだろう。
背景の窓から見える空は、曇天のくすんだ灰色だった。
妾は、ユリウスを連れて部屋の中心に向かい、茶菓子と食器がセットされた丸テーブルに寄せられた椅子のひとつにかけた。ユリウスに手で合図し、彼にも椅子にかけるよう促す。彼も、慣れた様子でスッと椅子に腰掛けた。
「エッセンバッハ公爵家での夜会ぶりだな、ユリウス。雨には降られずに済んだか?」
「ええ。先ほど登城した際は、まだ雨は降っていませんでした」
「そうか。空模様と、空気の湿り気からするに、帰りには降るかもしれん。強く降るようなら、皇宮に泊まっていくとよいぞ」
「ありがとうございます。その際は、お言葉に甘えさせていただきます」
妾の言葉に、ユリウスは人当たりのよさそうな微笑みを浮かべて頷く。
妾たちが他愛のない挨拶を交わしている間に、世話についていたメイドが、そばに置かれたティートロリーの上で紅茶の用意を進める。薔薇の香りを含んだ匂いが湯気とともに立ち上った。
小さな砂時計の砂が落ちきったタイミングで、メイドが慣れた手つきでティーポットを持ちあげ、二客のティーカップにそれぞれ注ぐ。それらが、かすかな音だけを立て、妾とユリウスの前に置かれた。
仕事を終えたメイドは、静かに壁際に下がる。
妾は、目隠しをはずそうと思い、部屋に男性がいないか確認するべく見回した。護衛は、蒼翼隊の女性騎士のみ。安全な皇宮内ゆえか、今日は若手の隊員がついていた。使用人は、侍女とメイドだけ。侍女は今日、ユリエッタとマルグリットがついてくれている。
ユリウス以外に男性がいないと確認できたので、妾は目隠しをとった。
妾が目隠しを外して顔を見せると、ユリウスの表情が緩む。事情を理解してはいても、目元を隠した人間と向かい合う不安感は少なくないのだろう。
さて。彼には今日、大切な話をしなければならない。
「ユリウス。このあいだな、――」
妾は、レオンの詳細は伏せ、とある男性から告白を受けた話をした。
***
「――『操はやれないし結婚もできないが、それでも良いなら恋人になるか?』と尋ねたのだ。いわゆる愛人というやつだな。それで、……」
ひとつだけ言い訳をさせてもらうならば、妾とて、このあたりで『まずい』と気がついた。
ユリウスの顔から、表情というものがすっぽりと抜け落ちていたから。
彼のこんな顔は初めて見た。彼はいつだって柔和に微笑んでいたのだと、このとき初めて気がついた。
怒り? 困惑? 驚き? 悲しみ? ――どれともつかない、無表情。ただ、目蓋をわずかに大きく開き、妾をまっすぐ見つめている。
その瞳は、いまに引きずり込まれそうな、底の見えない光なき深淵を湛えていた。
「……あ……、……その……」
言わないと。彼は『許婚に確認したほうがいい』と言って、妾も確かにそうだと思ったと。そなたが嫌なら、恋人になるという話はナシにするつもりなのだ、と。
いや。ユリウスが嫌だというのはもう分かったので、告白はやはり断ってくる、と。
だが、言葉が喉で詰まったように出てこない。
すごく、こわい。心臓がバクバクして、嫌な汗が流れている。こんなことは初めてだ。
「……ユリウス、今の話は――」
ようやく出てきた声に被せるように、ユリウスの口が動いた。
「だれですか?」
抑揚のない、静かな声。なのに、ぞわっと寒気を感じた。
「誰、というほどの者では……」
「だれなんですか?」
ユリウスの追求はつづく。だが、素直に教えたらまずい――非常に、まずいことになりそうな気がする。
「あの……すまなかった。妾が悪かった。告白の件は、やっぱり断るから――」
「だれなんですか?」
ユリウスは質問を繰り返す。
どうしよう。どうしても、レオンの素性を吐かねば許してくれないのか。妾が平謝りしたら、なんとか許してもらえないだろうか。
妾は、体を大きく前に倒し、深く頭を下げた。ドレスに合わせて流した髪が、さらりと前に落ちて頬に触れる。
「すまない、……いや、ごめんなさい。どうかしていた。ちゃんと、ダメだと言ってくるので、許してもらえないだろうか……。この通りだ」
「どうして、教えてくださらないのですか?」
ユリウスは食い下がる。
どうしよう。許してくれないらしい。だが、言ったら絶対にまずい。レオンの身が危ない気がする。
妾はただ、黙って頭を下げ続けた。
「そんなに……その男が、大切なのですか?」
「いや、その……大切、というのは違う……いや、違わないかもしれないが……」
「その男を、愛していらっしゃるのですか?」
話がまずいほうに転がっていく。
妾は、おそるおそる顔を上げ、ユリウスの顔色をうかがった。彼の表情は変わらなかった。深淵が、こちらをじっと見つめ返している。
「……そこまでじゃ、ない。…あの…ただ少し、うれしかっただけなんだ。政略結婚の相手としてでも、皇女の身分でもなく、妾個人を、好きだと言ってもらえて。
それだけだ。だから――」




