恋人になってみる?
今日も、よく働いた。
銀狼亭の裏口から出たあたしは、月明かりに照らされた裏路地に立った。狭い星空から月が覗いていて、閑散とした共同水場の影を落としている。
今夜も銀狼亭は大賑わいで、貴族の夜会と違って賑やかだった。
どちらがダメとか良いとかではなくて、どちらにも良い点・悪い点がある。あたしは、いろいろな人とお話しするのが好きだから、どちらも好き。
ただ、銀狼亭でキツいなって思うのは、常連の男性客の一部が泥酔すると、下ネタが多くなること。あと、悪口の言葉選びが、なんというか、どれも強い。
おかみさんが叱って止めてくれることもあるけれど、そういうのが普通みたいなのよね。
社交界での言葉遣いのマナーって、遠回しで婉曲で、考えがよく読めないような話し方が多いのだけれど、あれのおかげでショッキングな会話が防がれているのね……。
そんな物思いにふけって待っていると、馬車留めまでの帰りの付き添いのため、レオンが裏口から出てきた。
「おまたせ。行こうか」
「うん! ……ん?」
レオンの手には、ラッピングされた小さな花束が握られていた。
あたしが「それなに?」って顔して、レオンの目と花束を交互に見やると、レオンは、耳まで顔を真っ赤にしながら、その花束をあたしに差し出してきた。
淡いリネン布と銀灰色のリボンで素朴にラッピングされたその花束は、淡いピンク色のさした白バラ・ピンクのガーベラ・赤いカーネーション・白くて小さな花のかすみ草などが束ねられた、小ぶりな一束だった。
「あのさ……これ、アンナに渡したくて。花とか、あんま得意じゃねーけど……お前のことさ、いつも頑張ってて、すげぇって思ってる。……よかったら、受け取ってくれねぇかな」
「あたしに……?」
胸がくすぐったくなるような、心に温かいものを注がれたような嬉しさを感じて、あたしはレオンの花束を受け取った。ふわり、と、花の香りが鼻腔をくすぐる。
上質な花が使われていた。市場価格まできちんと調べたことはないけれど、レオンは、かなり奮発してこれを買ってくれたのだろう。
「ありがとう、うれしい」
あたしは心からそう言って、贈られた花束を抱きしめるように胸元に寄せた。
「大事にするね」
「……っ、……ああ……うん、……その、喜んでもらえて良かったよ」
「うん、すっごく嬉しい!」
あたしはニカッと笑ってレオンに言った。レオンは、まだ顔を真っ赤にしたまま、恥ずかしそうに視線をそらす。
レオンと並んで帰り道を進みながら、あたしは花束に視線を向ける。とてもきれいだ。
いい働きの報酬に、花束をもらうなんて。あたしの知らない文化だけれど、なんだかすごく嬉しい。皇女としては、もっと素晴らしい花に毎日囲まれて過ごしているはずなのに、この素朴でかわいい花束が何故かすごく嬉しい。
レオンがこれを用意してくれたってことが、あったかくて嬉しいって思うんだ。
思わずニコニコして、ちょっとスキップまでしながら、帰り道を歩んでいく。
ああ、こんな素敵な人たちと過ごせる時間が、もう半月もないだなんて。
でも、仕方がないよね。あたしは、自分で望んだ使命を果たさなくちゃいけない。
きっと、レオンたちも幸せに暮らせる帝国にしてみせるわ。
「……あのさ!」
レオンが立ち止まり、不意に声を大きくして呼び止めた。あたしは、どうしたのだろうと振り返る。
「うん?」
「おれ、お前のことが好きだ! アンナ!」
「えっ……?」
あたしは、衝撃的な告白に目をまるくし、レオンを見つめ返した。
「ごめん。こんなこと言われても、困るよな。お前、もうすぐ帝都を離れるんだし。でも、どうしても、離れる前に伝えておきたくて……」
あたしは驚いていた。
皇女の身分ぬきに関わった他人から、あたしの正体を知らない人間から、好意を伝えられるだなんて思わなかった。
それに……なんだか嬉しかった。許婚がいるのにいけないことなのだろうけれど、レオンみたいに真面目な人が、あたしのこと好きって思ってくれたんだ。
「……ありがとう、レオン。うれしい」
あたしは、その気持ちを率直に伝えた。レオンが、とっても勇気を出して、実らない目算のほうが大きい恋なのに、告白してくれたから。
レオンは、断りだと思ったのか、少しだけ残念そうな、悲しげな微笑みを浮かべた。
「うん……」
「あたし、言ってなかったんだけど、実は許婚がいるの」
「……まあ、お前、居そうだよな。いいんだ、断ってくれて……」
「だからね。操はあげられないし、結婚もできないのだけれど、それでもいいなら恋人になってみる?」
「……なんて???」
あたしの提案に、レオンは素っ頓狂な声をあげた。
「恋人って、それ……許婚……え……?」
「なにか問題あるかな?」
「え、……あるんじゃ、ねえの? ……普通に考えて」
「そう?」
そうか、これは貴族社会的な考え方で、平民のレオンには馴染みが薄いのかもしれない。
貴族の結婚は政略結婚、愛がなくても当たり前。それでも愛し合える夫婦は居るには居て、あたしの両親はそうだけれど、そういうのは稀なのだって。
この間の夜会でも、どこそこの夫人が若い燕のだれそれと何々とか、本邸に妻のいる男性が愛人宅に入り浸っているとか、いっぱい噂されていたもの。
「許婚とは、いわゆる政略結婚なの。だから、お互いに愛を他で見つけてもいいはずだわ」
「いや! ……いや! それ、確認したほうがいい、その許婚に。本当にアンナがそうしてもいいのかどうか、聞いてこい。おれとの話はそれから!」
レオンに言われ、あたしは、確かにそうか、と思った。
何事も報連相は大切だ。まして、政略結婚相手は、誰よりも近いビジネス・パートナーでもある。物事をこちらで勝手に決めるのはよくない。
「……そうだね! 聞いてみる」
「……大丈夫かな。おれ、すげえ心配になってきたわ……」
「大丈夫! 六歳のときからの幼馴染みでもあるもの。なんだって相談できるわ」
「お、おう」
先ほどまでの切ない雰囲気から一転、すっかり心配そうな顔をしたレオンに見送られ、あたしはいつも通り馬車に乗り込んだ。
「またね、レオン!」
「おう、気をつけてな! ……色々と!」
馬車の扉が閉じられ、一人になったあたしは、すっかり甘い恋の空気に酔っていた。
――なんと愚かだったのだろうと、後で猛烈に後悔することになるとは知らずに。




