最悪だ
馬車にユリウスと乗り込み、妾たちは帰路についた。夜の静寂に、車輪の音だけが響く。
二人きりになり、カーテンも閉めてあるので、妾は目隠しを外す。
「楽しい夜会だった! ユリウス、そなたは?」
「私も、楽しかったです」
そう応じるユリウスの言葉は、嘘ではなさそうだが、どこか表面的というか――『そう答えるのが正解だから』そう言っているだけで、本心を話していないような感じがした。
「……そうか! それならよかった。今後は、夜会に出席する機会が増えるであろう。そなたにも付き合ってもらわねばならぬが、平気か?」
「ええ、勿論です。アナスタシア様のおそばにいることが、私の幸せですから」
ユリウスの言葉は、本心だろうか。
「……妾も、そなたがそばにいてくれるから心強い。今後とも頼りにしている」
「はい」
馬車は、先にヴァイセンドルフ辺境伯邸に寄り、ユリウスが降りた。
「お先に失礼します。おやすみなさい、アナスタシア様」
「ああ。おやすみ、ユリウス」
扉が閉められ、車内に妾一人となる。一人になると、考え事がうかんだ。
ユリウスは、本当に楽しめただろうか。妾の都合で振り回されて、迷惑していないだろうか。
彼は、何かを隠しているような気がする。
しかしそれは、妾も同じだった。妾は、ユリウスに嘘をついた。
『何も問題など起きていない』
平民になりすます生活の中で、本当はひとつ、大きな問題が起きていた。そのことを、ユリウスには言えなくて、隠していた。
***
ユリウスに言えなかった問題――それは、銀狼亭で起きた事件である。被害者は妾、いや、アンナ・シュタルクであった。
その晩、見慣れない粗野な若い男の客が来ていた。そいつが注文のためにあたしを呼び、あたしが近づいたところで、臀部と太腿を舐めるような手つきで触ってきたのだ。
あたしはひどく驚き、鉛筆も注文票も取り落としてしまって、そいつを突き飛ばすようにして慌てて離れた。あまりのことに声も出ず、血の気がざあっと引く音がはっきりと聞こえて、思考が真っ白になったことを覚えている。
あたしの異変に、おかみさんやレオン、常連客たちもすぐに気づき、駆け寄ってきた。声も出ないあたしの代わりに、危害を加えた男は、さも興ざめしたという態度で言った。
「んだよ、酒場の女がケツ触られたくらいで動揺しすぎだろ。おぼこぶってんのか? ったく、萎えさせんじゃねーよ。客にご奉仕してチップを稼げってんだ」
その瞬間、おかみさんとレオンと、常連客たちの怒号が鳴り響いた。男は瞬く間にとっちめられて取り押さえられ、保安隊に引き渡されていった。
どうやら平民の間では、こういうことがよくあるらしい。しかも、今回は加害者が逮捕・拘留されたが、相手が権力者である場合はそうならず、連行すらされずに釈放されてしまうこともあるという。
貴族についても、妾が知らないだけで、下位の貴族女性や平民女性に対し、こういった狼藉を働く男がいるという。被害者が守られることはほぼなく、対抗する術もない。
嘆かわしい。体を売って生きている女だったとしても、同意もなく他人に突然体を触られる筋合いはないはずだ。爵位を盾に婦女への狼藉を意のままにするなど、言語道断である。早急に調査・対策をまとめ、法改正につなげなくては。
それは近いうちに実施するとして、問題は、今回あたしが被害を受けた件をどう扱うか、である。
皇女アナスタシアに対する狼藉として扱えば、男は即刻処刑となる。しかしその場合、平民アンナ・シュタルクと身分を偽り酒場で働いていたことを、余計な人間にまで知らせなくてはならない。
平民女性への狼藉として扱えば、現行法では大した罪にならない。長くとも三ヶ月程度で刑務所を出てきてしまう。罰金支払いが可能であれば、禁固刑すら免除だ。
無論、そのような甘い罰で許すつもりはない。とはいえ、法を無視して私刑に走るのもよくない。
噂によれば、「どうせ相手にされない」と被害者女性から訴えを出されていない、同様の前科がいくつもあるらしく、再犯の可能性も高いとみられている。
さてどうしたものかと、翌日、皇宮の執務室で公務をこなしつつ考えていると、“影”から報告を受けた。『例の男が拘置所から失踪した』という。
まさか、脱走されたのか。保安隊は何をしているのだとこぼしつつ、“影”に男の捜索を頼む。
男は、失踪五日後に発見された。全身に無数の凄惨な怪我を負い、ゴミ置き場で生ゴミと混ぜられ、遺体となって遺棄されていた、という。どうやら、ひどい拷問を受けた末、とびきり苦しい死に方をする毒を飲んで死亡したらしい。
誰にやられたのか尋ねたが、“影”では掴めていないと言われた。皇室直属の諜報部隊に分からないのであれば、皇宮の関係者ではなさそうだ。
まあ、恨まれて当然の行いを元々しているであろうし、彼を恨む誰かの手にかかった、と考えるべきか。これ以上の調査は、担当の保安隊に任せるべきだろう。“影”のメンバーからもそう進言され、妾は同意した。
――という顛末を、一貫して妾の平民生活に反対していたユリウスには言えずにいた。こんな話をしたら、いっそう心配させてしまうだろうし、妾もユリウスの異議をはねつけられなくなる。
まして、婚約者のユリウスだって触れたことのない場所を、どこの馬の骨とも分からぬ男が勝手に触れただなど、最悪だ。こんな話がばれたら、ユリウスがどう反応するか、想像もしたくない。
やはり、この話をユリウスに明かすわけにはいかなかった。
あと少し、ほんの一ヶ月弱の間だ。その終わりまでは、平民になりすます生活を続けさせてもらおう。




