ジジイは小便よりも木こり
アーベントロートは、薄い眉を寄せ、こめかみを揉みほぐしながら、いつもの低く抑揚のない声で妾に問いかけた。
「平民に扮し、平民区画にお通いになりたいとか」
「そうだ」
「考え直すつもりは」
「ないな」
「皇后陛下がご反対なさっていても…」
「変わらない」
口上を事前に打ち合わせたかのように、妾達は流れるようなやり取りをする。
アーベントロートは、不満を隠そうともせず、大きく息を吸って、思いっきり大きく溜め息を吐いた。妾は、キュッと唇を引き結び、小首をかしげる。
「…その顔やめてください」
アーベントロートが、せめてもの抵抗とばかりに言うので、引き結んでいた唇は出してやった。
「侍女殿らにも協力してもらいます。平民の扮装や言動、振る舞いには、当の平民よりも、潜入捜査の専門家を頼るのがよろしいでしょう。“蒼翼隊”にも、変装して護衛するよう、話をつけます。必要な服、身分証明書、戸籍なども、すべて、こちらで手配させましょう」
「うむ、任せる」
「ですから、絶対に、おひとりでは行かないでください。多くの人間を動かします、準備も多くございます。お時間を頂戴することになりますが、絶対に、ぜったいに、抜け出したりなさいませんよう。絶対に、おひとりでは行かないでください」
大勢動かすことがそれほど問題なら、妾が自分ひとりで…と、内心で一瞬よぎるが、絶対に声には出さない。それを口に出したら最後、アーベントロートからの長い長い説教をくどくどと受けることになるからだ。
妾は、頷いて「承知した」とだけ応じた。
アーベントロートは、考えを巡らせるように目を細め、天井のあたりに視線を走らせて、しばらくののち、大きな溜め息をまたひとつ吐いた。
***
いざ、平民になりすますという目標ができると、学ぶことも増えた。平民の暮らしぶり、服装、物価、言葉づかい、住居構造の違い、などなど。
それに、みずから貨幣を取り扱い、買い物だってできる必要がある。普段のように、欲しいものをただ選んで持って行ったら、盗人となってしまう。
教師には、アーベントロートの手配した隠密調査員だという女性が来た。赤茶の豊かな髪をなびかせた、中々の美形である。名は、ヴァレンティーナといった。元は平民で、一代男爵位を賜った身とのこと。
いわゆる“皇室の影”を担う組織の一員らしい。直接関わることはないので、よくは知らないが。
化粧指導や服の試着などもあるため、試着の間に彼女を招き、侍女ともども指導を受けた。通常は仕立屋などの業者を招く部屋で、採光がよく、着替え用の衝立や、大きな姿見のある場所である。
「はーい、復習です。お財布にグランツ金貨は~?」
「いれてはいけない」
「正っ解~。ゼルネ銀貨は~?」
「多くとも10枚まで」
「はーい、大正解~。平民の年収はですねー、技量の高い職人で120ゼルネ、給仕は40から60ゼルネくらいですー。
安全のために、あんま大金もちあるかないでくださいねー。金ぬすまれる分には痒くもねーと思うんッスけど、身の代金狙いでね、姫様本人が誘拐とかされっとヤベーんで~」
「うむ!」
「さっすがですね~。マージで、一回きいたら即覚えますね~。超スゲーっす、パネェっすわ。ソンケーしちゃいます~~」
化粧台の前に座り、ヴァレンティーナに化粧を施されながら、彼女とそのような会話を交わした。
生まれが平民の教師に教えをうけるのは初めてだが、言葉づかいや口調が貴族と全然ちがっていて、聞いたことのない言葉も多い。今、褒められているのはなんとなくわかる。
ヴァレンティーナが、大きめのメイクブラシでポフポフと妾の顔を撫でる。すると、みるみる、妾の人相が変わっていく。
「いや~。あーし、貴族のフリしてぇ、貴族の夜会に潜入~は、したことあんスけどぉ~。逆に、ホンモノのお姫様、平民に化けさす日が来るとか思わんスよ~。
なんつうんですっけ、こういうの。“ジジイは小便よりも木こり”?」
「“事実は小説よりも奇なり”だな。無理を言ってすまん」
「いやいや、ムリとかはねーすよ? マジで。あーし、平民ガオのがいっぱい見てっし。んまぁ、しいていえば、この爆裂アゲアゲ超絶美少女フェイス、ど~~にか、イモに見せるのが難しいッスけどぉ~。まあ、あーしに任してくださいよ」
「うむ!」
肌色を濃く、不均一に日焼けしたような色味が足され、さらに、ぽつぽつとソバカスが足されていく。
「美人をブスにすること、あんまねーし聞かないッスけどぉ。ようするに、ブスを美人に見せるのの逆をね? やったったらいいわけで~~。そっちは、お手のモンですからよ? あーしに任したら完璧ってわけ。……おっし! どっすか!」
ヴァレンティーナが、さっと身を離し、妾に鏡がよく見えるようにしてくれる。
「おお……!」
そこには、まったく別人としか思えない、なんというか、……野暮ったい、というのだろうか? そんな、平民っぽい少女の顔があった。
目元も、本来の妾は吊り目だが、化粧で垂れ目に変えられており、それが特に印象を変えてくれている。
「これが……妾……?」
「ちょ、ウケる。それ、美人になったときに言うセリフ」
ヴァレンティーナがケタケタと笑いながら言う。言われてみれば、恋愛小説などでは、そうだったかもしれん。
「みな、見てくれ。どうだ?」
妾は振り返り、控えていた侍女らに化粧後の顔を見せた。鏡台越しに確認していたのか、すでに驚きの顔で見つめ返されていた。
「まったくの別人ですわ!」
「わたくし達ですら、姫様と分かりませんわ!」
「ええ、ええ、とっても平民らしい人相ですわ!」
「姫様の美貌が7割がた抑えられておりますわ!」
「これなら誰にも分かりませんわ!」
そのように口々に言い、ぱちぱちと賞賛の拍手をヴァレンティーナに向ける。
妾も一緒になって彼女に拍手を送ると、ヴァレンティーナは「でへへ」と言いながら頭をかいて照れた。
「まーね! えっへへ。大妖精って呼んでくれてもいッスよ」
ヴァレンティーナは、有名な童話を引用しながら、そのように応じた。
童話の中では、とある舞踏会に行くことを望んだみすぼらしい少女が、大妖精の魔法で身なりを一変させ、ふさわしい服装となって望みを果たす。ただし、その状態が維持されるのは、夜中の12時の鐘が鳴り終わるまでだ。
「さらにさらにー? あーしの魔法は、夜の12時になっても解けないッス!」
そう言うと、ヴァレンティーナは「目と口とじてください~」と言ったのち、なにやら霧吹き容器の液体を妾の顔に吹き掛けた。
「これはですね~、メチャメチャ強力なコスメキーピング剤ッス。お手持ちかもしれないッスね。これ超ヤバくて、汗でも水でもバリ弾いて、化粧ぜったい落とさせないんスよ。3日くらいはもちます。落とすときは、コレ専用のクレンジングつかって落とします。マジで他なにしても落ちないんでー。
あーしからすっと、どっちも超たけーんすけど、“影”の経費でるから超つかっててー。なんかぁ、屋外のイベント? まぁつまり、日が当たって汗でそうなとこ? 行くときとかの貴族の奥様やー、お嬢様たちにもちょー人気らしいッスわ」
「おお、すごいな」
それらのコスメキーピング剤とやら、および専用クレンジングはあるのか? と、侍女たちに目配せを送ってみると、レオノーラがすかさず頷いた。どうやら、既に買い置きがあるようだ。
化粧が決まったあと、ウィッグと衣装も合わせた。ヴァレンティーナが用意してくれたものを幾つか試してみて、最終的に、平民によく出現する明るい赤毛と、体のラインを出さない古着のワンピースを選ぶこととなった。
それから、ヴァレンティーナがいなくとも同じ化粧を再現できるよう、妾の顔を使って何度か化粧を塗り直させつつ、侍女らに塗り方や手順を覚えてもらう。
こうして、“アンナ・シュタルク”の人物像は形成されていった。
「オトコどもが見て例の問題が起きないかどーかはー、宰相閣下が“消えてもいい人間”用意して、試してくれるらしいッス! 問題なきゃ、これでいっちゃってください!」




