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妾の顔を見た男は、みな狂う。ただ一人、婚約者を除いて  作者: 佐藤みさき
第二章 看板娘のアンナ・シュタルク

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アンナ・シュタルク

 商人の馬車に偽装した馬車から出て、帝都の下町――シェネ・ガッセ区に降り立つ。石畳を踏んだ靴は、妾(わらわ)の足より少し大きいサイズで、汚れてくたびれていた。

 髪は、すこしボサついて痛んだ、平民らしい赤毛の三つ編みを、麻(あさ)紐(ひも)ひとつで縛ったウィッグ。顔には、誰が見てもアナスタシア皇女と思わない目鼻立ちで、そばかすと日焼けシミのある――ように見せかけたメイクを施し、炎天下の催しでもメイクが崩れないという、強力なコーティング液を吹き掛けた。もちろん、目隠しは無し。

 服は、古着めいた質感の厚手のリネンでできた、モスグリーンのラウンドネック丸襟長袖ワンピースである。

 ここでは、妾(わらわ)は妾(わらわ)ではなく “あたし”。『帝都に越してきたばかりの商人の娘、アンナ・シュタルク』だ。

 うっかり言い間違えないように、心の中でも口調を変えなくっちゃ。


 貴族区からも大通りからも離れた、皇宮よりも外壁のほうが近いこの場所は、平民たちの暮らす商業区画。庭のない家々が所狭しと並ぶせいか、まだ日があるのに、どこか薄暗い。

 このへんの家屋は、貴族の邸宅と全然ちがっていて、2~3階建ての小さな木造や石造がひしめきあっている。たいして修繕もされず過ぎた月日が、外壁の傷や塗料の剥(は)げからわかる。見上げれば、家々をつなぐ紐(ひも)に吊(つる)された洗濯物が揺れている。

 石畳の道も、普段馬車から見る清潔な大通りとは違っていて、あちらこちらひび割れ、苔(こけ)むしていて、泥かなにかも所々に溜(た)まって汚れたまま。


 でも、あたしにとっては、大切な場所。なんてったって、ここで働いて、平民たちのみんなのこと、勉強してるんだからね!

 馬車から降りた後、あたしは走った。今日は少し遅れてしまったし、はやく《銀(ぎん)狼(ろう)亭(てい)》酒場に行かなくっちゃ!

 走っていると、顔なじみの住民たちが声をかけてきた。


「おう! アンナちゃん、これから仕事かい?」

「こんにちは、ヘッセンさん! そうだよー!」


「あら、アンナちゃん、こんにちは。今日は酒場にいるの?」

「こんにちは、ローベルトさん! うん!」


「アンナちゃーん! そんなに急いで走っちゃ危ないよー!」

「ありがとー! でも遅刻しちゃうからー!」


 返事しながら走って、ようやく銀(ぎん)狼(ろう)亭(てい)に辿(たど)り着(つ)く。銀色の狼(おおかみ)の横顔が描かれた、木製の看板が掲げられている、木造二階建ての小さな酒場。あたしの職場だ。

 あたしは、建物の裏にまわって、預かっている合い鍵で、裏口の扉をあけた。


「おはようございまーす! アンナ、入りまーす!」


 あたしは、大きな声で中に声をかける。昼をとっくに過ぎているけれど、従業員同士は常に「おはようございます」と挨拶する決まりだ。

 店の1階には、まだ誰もいなかった。おかみさんもレオンも、まだ2階で休んでいるのかしら。それとも、買い出しに行っているのかな?

 あたしは、裏口そばの衣装掛けポールから、生成りの粗布でできた白い前掛けエプロンをとって、ワンピースの上からサッとまとい、背中で留(とど)め紐(ひも)をむすんだ。近くのチェストの上から、焦げ茶色の三角巾も取って、頭につける。

 それから、掃除用のバケツに水を――って、水(みず)瓶(がめ)の水がもうない。先に、共同水場から汲(く)んでこなくっちゃ。

 皇宮みたいに水道がついていたら楽なのにな――なんて思ったりもしながら、水(みず)汲(く)み用の取っ手つき桶(おけ)を取って、また裏口から外に出る。


 このあたりの建物には水道がついていなくって、代わりに、帝都の公共浄水施設から伸びる公共水道とつながった、共同水場がある。ここらの建物を使う人たちは、みんなでここの水を汲(く)むのだ。

 近くには、使われていないポンプつきの古井戸もある。共同水場ができる前は、あのポンプのハンドルを何度も何度も上下させて、水を汲(く)んでいたのですって。今は、蛇口をひねればいくらでも水が勝手に出てきて、楽になったのだとか。

 顔なじみの奥さんたちと軽く雑談しながら、桶(おけ)に水を溜(た)め、水の入った桶(おけ)を店まで運ぶ。こぼれないように気をつけて運んだら、水(みず)瓶(がめ)に流し込む。

 水を用意できたから、今度は掃除。掃除用バケツに水を汲(く)んで、雑巾でテーブルやバーカウンターの上を、モップで床を拭いた。

 掃除の合間に、食材の残りも確認。ソーセージの在庫が残り少ない。やっぱり、おかみさんたちは買い出しに行ったのかな。


 4分の3程を掃除し終えたころ、裏口から母子の声がして、ガサガサいう買い物袋の音とともに、扉が軋(きし)む音がした。


「おかえりなさーい!」


 あたしは、掃除を続けたまま、厨(ちゅう)房(ぼう)にいる二人に声をかけた。


「あら、アンナちゃん。いっつも早いわね」

「もう開店5分前ですよー? 準備もあるんだから、この時間には居ますって!」

「それが、そうでもないの。前に辞めた子なんか、1時間も後にだって平気で来ていたんだから」


 のんびりとした中年女性の声につづき、同世代の男子の声が聞こえる。


「母さん、そんな話してる場合じゃないだろ! ったく、肉屋のおかみさんと長話しすぎだっての!」


 がちゃ、ばたん、と開閉する冷蔵庫の扉の音や、戸棚を開け閉めする音がした。その後、親子が店側にやってくる。


 エルザ・ディートリヒは、夫を亡くして息子と二人、親から継いだ店を切り盛りして暮らしている40代の女性で、銀(ぎん)狼(ろう)亭(てい)のおかみさん。息子のレオンは、18歳の男の子。身長は、あたしより2、3センチ高いくらい。二人とも、波のかかった栗(くり)色(いろ)の髪と、緑色の瞳をしていて、よく似ている。


「さあ、店を開けるよ!」


 おかみさんが声をかけつつ、開店中の看板を外に出しに行く。

 庶民向け酒場《銀(ぎん)狼(ろう)亭(てい)》、これより営業スタートだ。


***


 妾(わらわ)が初めて “アンナ・シュタルク” として平民区画に降り立った、その一ヶ(か)月(げつ)前のこと。


「……というわけで、妾(わらわ)は、変装して平民になりすまし、平民街に通って、平民について学ぼうと思う」


 思い立ったが吉日、リュシエールとの散歩を終えた妾(わらわ)は、居室に戻って早速、侍女たちにそう説明した。

 予想どおり、猛反対された。危険だ、そんなことする必要はない、貴族たちの相手ができるようになれば十分だ、と。

 だが、その程度で折れる妾(わらわ)ではない。


「みなが協力してくれずとも、妾(わらわ)は行く。皇宮を抜け出してでも、絶対に行く!」


 困り果てた侍女たちは、まずベルンシュタイン夫人に相談する。相談された夫人が、妾(わらわ)の説得を試みる。同様のやり取り。

 こうなると、困り果てた夫人もまた、とある人物に相談する。母上である。

 かつては母上も、妾(わらわ)がこういうことを言い出した際、妾(わらわ)を諫(いさ)めておられた。だが今は、こういうときの妾(わらわ)が、絶対に折れないと知っている。

 なので、病床の父上に代わり、とある別の人間に任せる。


 皇族にも構わず意見でき、妾(わらわ)が多少言うことを聞く相手でもあり、我が父皇帝マクシミリアンが信を置く側近にして忠臣――まあ、つまり、帝国宰相アーベントロートである。

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