第8話「覚醒度の声」
市民区と学院区の境界は、壁ではなく石畳の区切りで分かれている。こちら側は市場と住居。向こう側は石造りの研究棟が立ち並ぶ霊眼学院の区域だ。
セラフィーナが学院区の受付に荷物を届ける用があるというので、遥は付き添いで来ていた。
その境界の手前に、古い石柱が立っていた。
高さは遥の倍ほど。黒ずんだ石の表面に、びっしりと文字が刻まれている。道行く人々は誰も立ち止まらない。目も向けない。何十年と見続けて、もう風景と化してしまったのだろう。
「あれ、何ですか」
セラが振り返った。「古い記念柱です。昔からそこにあるので……正直、誰も気にしてないと思います。学院の研究員でも、読めない文字だって言ってましたし」
遥は近づいた。
文字が見える。
読める。
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それは古代語だった。
遥は石柱の前に立ち止まった。何の気なしに読み始めた——そして、止まれなくなった。
「……何か読めますか?」
「はい」
セラが息を呑んだ。「全部?」
「全部」
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碑文の内容は、断片的だった。石が欠けているところが何箇所かあり、読めない言葉が混じる。でも大意は分かった。
書かれていたのは、警告だった。
「扉は閉じた。しかし完全ではない——知る者が消えれば、やがて誰かがまた開こうとする。後世の者へ。扉に名を与えるな。声に応じるな。答えれば——」
そこで石が欠けていた。
その下に、最後の一行があった。他の文字とは字体が違う。深く、力強い刻みで。大啓示夜の後に、誰かが急いで付け加えたような跡だった。百五十年前にヴェイルハルムが半ば廃墟になった夜のことだ。セラから聞いていた。
遥は目を細め、その行を読んだ。
瞬間——空が変わった。
一瞬だけ。
青空が、ありえない色になった。夕焼けでも夜でもない、どこにも存在しないはずの色——灰みがかった金色に近い何か。昼なのに、星の輪郭が透けて見えた。そしてすぐに、何事もなかったように元に戻った。
【扉は、まだ閉じていない。開こうとしている者がいる】
遥は視線を石柱から離した。深呼吸を一つ。空を見た。青い。普通の昼の空だ。
「……大丈夫ですか?」
セラが心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫です」
「顔が少し青かったですよ」
「気のせいです」
嘘だった。でも今は、それで十分だった。
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古鍛冶場に戻ると、すでに話が広まっていた。
廊下で若い聖痕者たちが話している声が聞こえた。
「古代語が読めるって本当か」
「セラが言ってた。碑文を立ち読みで全部解読したって」
「……転移者、頭がおかしいんじゃないか。……いや、褒めてるけど」
遥は聞こえなかったふりをした。
その夕方、珍客が来た。
古鍛冶場の受付に、若い男が立っていた。白衣に眼鏡。羊皮紙の手帳を両手で持って、少し緊張した顔をしている。
「あの……霧島遥さん、という方はここに——」
「います」
男がぱっと顔を上げた。「霊眼学院の研究員です! 古代語の解読能力をお持ちだと伺いまして、ぜひ一度……その、お話を……」
廊下の奥から、セラフィーナが大股で歩いてきた。
「遥さん! 人気者になってます!」
「落ち着いてください」
「いいえ! 学院の方が来るなんて! すごくないですか!?」
研究員がびくっとした。
「あの、お邪魔でしたか……」
「邪魔じゃないです」と遥は男に向き直った。「少し時間をいただけますか。詳しい話を聞かせてください」
セラがにこにこしながら隣に並んだ。「わたしも聞いていいですか!」
研究員は二人を交互に見て、少し困った顔をした。
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その夜、声が増えた。
いつもは一つだ。遠くで誰かが歌っているような、低い声。
でもその夜は——複数だった。
目を閉じると聞こえてくる。それぞれが違う言語で、違うことを言っている。でも遥には全部分かった。全言語理解が、聞きたくないものまで理解させる。
言葉の断片が重なる。
扉。
まだ閉じていない。
開こうとしている者がいる。
【扉は、まだ閉じていない。開こうとしている者がいる】
遥は目を開けた。天井を見た。
静かだった。古鍛冶場の天井だ。普通の夜だ。
でも——さっきの声は夢ではなかった。
覚醒度が高いと、夢と現実の境界が薄くなる。セラから聞いた話だ。通常の聖痕者でも高覚醒になれば眠れなくなる者がいる、と。
遥は再び目を閉じた。声はまだ聞こえていた。でも精神は揺れなかった。
なぜ揺れないのか——それ自体が、少し気になった。
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翌朝、古鍛冶場の受付に一通の書簡が届いた。
学院の紋章が押されている。几帳面な字で、遥の名前が書かれていた。
中を開くと、一文だけ書いてあった。
「あなたの能力について、直接話したい。霊眼学院に来ることを希望する」
差出人の名は——リーセ・アーベント。
昨日来た研究員とは、違う名前だった。




