第6話「市民区の昼、廃域の夜」
朝、訓練を終えると、セラフィーナが来た。
「遥さん、今日は少し外を歩きませんか。市場が開く時間なので、案内します!」
遥はイグニスの方を見た。イグニスは短刀を手入れしながら、「勝手にしろ」とだけ言った。
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市民区は、古鍛冶場から東に少し入ったところにある。
ヴェイルハルムの壁内に暮らす人々の生活区域だ。石造りの建物が密集し、細い路地が複雑に絡まっている。朝市がいくつかの広場で開かれていて、干した魚や根野菜、革製品、小さな金属の道具が並んでいた。
「賑わってますね」
「はい。市場は毎朝あるんですよ」
人は多い。でも——どこか、静かすぎる。
市場の人々は確かに動いている。買い物をして、話をして、笑っている。でも目の奥が遠かった。視線が漂っている。会話は表面をなぞるだけで、どこにも響いていない。
「あの人たち……」
「聖脈の投与日が近いと、ああなるんです」
セラが小声で言った。
「壁内の住民は定期的に聖脈剤を投与されます——教会が精製した聖脈で作った薬です。体力の回復と、堕聖への耐性を高めるために使われていて。でも、投与が遅れると……」
「数が増えている気がしますが」
セラが少し立ち止まった。
「……気づいたんですね」
「最初に来たときより、血施院の列が長い」
セラは列を見たまま、しばらく黙っていた。
「教会は、量を少しずつ増やすことで免疫力が高まると言っています。でも……」
言いかけて、止まった。
「帰りに、また通りましょう」
遥は何も言わなかった。でも頭の中に、その列が残った。
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市場の一角にある香辛料の屋台で、セラが立ち止まった。
「この赤い粉、いくらですか」
「銀貨六枚だ」
セラが財布を出した。中身を確認して、困った顔をした。
「五枚でどうでしょう」
「駄目だ」
「四枚半は?」
「銀貨に半分はない」
「じゃあ五枚と、えっと……わたしの誠意、で」
「誠意で払われても困る」
遥が横から口を挟んだ。「同じ粉を三袋まとめて買うなら、銀貨十四枚でどうですか」
屋台の主人が少し考えた。「……十五枚なら」
「十四枚と、次もまたここで買います、という確約で」
沈黙。「……分かった。十四枚でいい」
セラが目を見開いた。「あなた、天才ですか!」
「大げさです」
「いいえ! 天才です! わたし、あの屋台で三度失敗してたんです!」
「……三度」
「三度です! 毎回六枚払ってました!」
遥は何も言わないことにした。
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帰り道、血施院の前を通った。
朝より列が伸びていた。
並んでいる人々の顔を、遥は一人ずつ見た。老人。子ども。仕事帰りらしい男。みんな静かに待っている。焦りも怒りも不満もない——ただ、待っている。
そのことが、なぜか、一番怖かった。
「セラさん」
「……はい」
「今度、話を聞かせてもらえますか。教会のことを」
セラは少しの間、黙っていた。
「……はい。いつでも」
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夕暮れを過ぎたころ、イグニスが遥を呼びに来た。
「来い」
「どこへですか」
「廃域。壁の外の廃区域だ。堕聖体が徘徊する場所に定期的に入って、数と動向を把握しておく」
廃域——市壁の外に広がる旧市街の廃区域。かつてはヴェイルハルムの一部だったのだろうが、今は住む者がいない。聖痕院が定期的に巡回して、堕聖体の動向を記録している。
「分かりました」
「足手まといになるな」
「善処します」
イグニスが一瞬だけ遥を見た。何も言わなかった。
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市壁を出ると、世界の色が変わった。
石造りの建物が立ち並んでいる。でもどれも半壊か完全に崩れていて、草が石畳の割れ目から伸び、木の根が壁を割っている。街灯は一つもない。月も薄い。
暗い。
「三体確認したら報告。戦闘は私が担当する。お前は記録係だ」
「記録?」
イグニスが小さな手帳を投げてよこした。「数。場所。動き。それだけ書け」
「分かりました」
二人で石畳を進んだ。足音を消すように。声もなし。
遥にとって、初めての廃域だった。昼間ならただの廃墟に見えるのだろうが、夜は違う。何もない静けさの中に、ずっと何かがいる気配が漂っている。建物の影が揺れるたびに、目が追ってしまう。
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廃域の奥、崩れかけた建物の群れの中で——光を見た。
青白い、小さな光。
廃屋の窓から漏れている。
「イグニスさん」
「見た」
二人で近づいた。入口は崩れかけていたが、通れる。イグニスが先に入り、遥が後に続いた。
暗い内部。瓦礫と腐った木材の匂い。光は、奥の部屋から来ていた。
廊下をゆっくり進む。イグニスが手で「止まれ」の合図をした。
遥は止まった。
イグニスが部屋の入口から中を覗いた。一瞬だけ。戻ってきて、指を一本立てた。
遥は入口から中を見た。
暗闇の中に、二つの光が浮いていた。
動いていない。ただ、こちらを見ていた。
堕聖体の目だ。
人間の目ではない。ガラス玉のように静止していて、でも確実に、こちらを認識している。遥は息を殺した。手帳を持つ手が冷えた。
イグニスが短刀を抜いた。
次の瞬間——影が動いた。
音もほとんどなかった。イグニスが部屋に踏み込み、一撃で仕留めた。
光が消え、 静寂が戻った。
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古鍛冶場の裏口に戻ったのは、夜半を過ぎた頃だった。
結果は三体。全て迅速に処理された。
遥は手帳を確認した。数、場所、動き——きちんと書けている。
「お疲れ様でした」
イグニスが裏口の扉を開けた。立ち止まらず、振り返らず、中に入っていった。
扉が閉まった。
遥は少しの間、その閉まった扉を見た。
何も言わなかった。でも最後まで、指示以上のことで怒鳴られることもなかった。
それで、今日のところは十分だと思った。




