第4話「新参聖痕者の朝」
夜明けの光が、部屋の隙間から差し込んできた。
ガルドールは、ずっとそこにいた。動いた気配もない。腕を組んで壁に背を預けたまま、ただ遥を見続けていた。
「転移した理由は」
「分かりません。古代文書の最後の一行を読んだら、光の渦に引き込まれました」
「その文書は今も存在するか」
「元の世界にあります。俺が持ち込んだわけじゃないので」
「帰りたいか」
少し、間があった。
「……分かりません」
「正直だな」
「嘘をついても意味がないので」
ガルドールは静かに息を吐いた。それが、今夜で初めての長い呼吸だった。
「過去に転移者が来たことがある、とセラフィーナから聞きました。その人たちは今」
「全員、帰れなかった」
遥は黙った。
「死んだか、それとも」
「両方だ」
さらりと言った。まるで天気の話をするように。
遥は少し考えた。怖くないと言えば嘘になる。でも今、その話は関係ない——そう感じた。ここにいる理由も帰る方法も、まだ何も分からない。分からないうちに怖がっても仕方がない。
「今は関係ないと思います」
ガルドールの目が、わずかに細くなった。
「なぜ」
「分からないことを怖がっても仕方がないので。まず知ることが先だと思います」
沈黙。
「しばらくここにいろ」
「理由を聞いてもいいですか」
「ない」
「答えがないということですか、それとも答えたくないということですか」
老人の唇の端が、わずかに動いた。「後者だ」
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登録は、翌朝に行われた。
古鍛冶場の一室に、分厚い台帳があった。遥は「霧島遥」という文字を、この世界の文字に変換しながら書いた。
「これで新参聖痕者だ」
受付を担当した老いたスタッフが言った。
新参——見習い、という意味だ。聖痕院では、堕聖体を狩る正式な資格を得るまでに一定の訓練を積む必要がある。その間は「新参」として扱われ、単独での任務には出られない。給金も出ない。
「訓練担当は」
ガルドールが後ろから言うと、スタッフが少し困った顔をした。
「……イグニス殿に、お願いしようかと」
廊下で、止まる気配がした。
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「私が?」
イグニスが腕を組んで立っていた。
「嫌だ」
「頼む」
「足手まといの面倒なんか見ない」
「見ろ」
短い沈黙。
「……給金、上げてください」
「考える」
「今すぐ答えてください」
「考える」
イグニスが小さく舌打ちした。遥は何も言わないことにした。
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訓練は昼から始まった。
古鍛冶場の裏手に、石畳の訓練場がある。イグニスは短刀を二本腰に戻してから、木剣を一本、遥の足元に投げた。
「素振り百回」
「分かりました」
遥は木剣を拾い上げて振った。
「止まれ」
一回で止められた。
「足が開きすぎ。もう一回」
振った。
「重心が高い。もう一回」
振った。
「肘が曲がってる。もう一回」
振った。
そのまま一時間が過ぎた。百回終わった時点で、遥の腕はほとんど上がらなかった。それでもイグニスは「走り込み十周」と言った。遥は走った。五周目で石畳に倒れた。
「根性なし」
仰向けのまま、遥は空を見た。雲が流れていた。
「もう一周やります」
「倒れたら終わりじゃないのか」
「足が止まったから倒れただけです。また動けばいいんじゃないですか」
イグニスが何も言わなかった。
遥は立ち上がって、走り始めた。
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そのとき、セラフィーナが裏口から顔を出した。
「着替えの訓練着、持ってきました! 汗をかいてますよね」
「ありがとうございます」
遥は訓練着を受け取り、訓練場の隅に寄って着替えた。
古鍛冶場の窓が、二つある。
気づくと、そちらが静かになっていた。
着替え終わって振り返ると、窓から数人の顔が消えるところだった。直後、室内からざわめきが漏れてきた。
「えっ、ちょっと待って」
「聞いてないんですけど」
「転移者ってそういう感じなの?」
「……何か問題がありましたか?」
遥が聞くと、セラフィーナが急に空を見上げた。「い、いえ」
「なんで騒いでるの」
イグニスがぼそりと言った。
誰も答えなかった。
遥も聞かないことにした。
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三日目の夕暮れ。
「もう一周」
「はい」
訓練を始めてから三日が経っていた。
一周ごとに、確かに速くなっている。それは遥自身が感じていた。体が、動き方を覚えていく。一つの動作を繰り返すたびに、余計な力が抜けていく。ただ上手くなるのとは違う——何かを理解しながら吸収していく感覚。頭ではなく、体が勝手に最適解を探している。
走り終えて振り返ると、イグニスが止まっていた。
腕は組んでいない。
遥を見ていた。いつもの無表情とは少し違う顔で。
「三日か」
「はい」
「普通、走り込みの基礎フォームが固まるまで二週間はかかる」
「そうなんですか」
「……そうだ」
イグニスはそれ以上何も言わなかった。
でも遥は見た。彼女が初めて見せた、驚いた顔を。




