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第3話「夜と堕聖と古鍛冶場」

音が近づいていた。


 遥とセラフィーナは、石造りの建物の庇の下に身を寄せていた。街灯は消えている。路地に人影はない。壁内の市民はとっくに扉を閉め、鍵をかけていた。


 足音ではない。あの引きずるような、不規則な音だ。昨夜と同じ——でも、昨夜より多い。


「何体いますか」


 小声で遥が聞くと、セラフィーナは指を折り始めた。


「……少なくとも四体。今夜は月相が最悪なので、もっといるかもしれません」


「月相と関係があるんですか」


「はい。月が欠けるほど、堕聖体だせいたいの活動が活発になります。理由は分かっていませんが、昔からそういうものだと」


 遠くで、また歌声がした。


 助けてくれ、助けてくれ——。


 遥は声を殺した。


---


 路地の奥から、一体が出てきた。


 人間だった。形は、人間だった。でも——動きが違う。


 膝が逆方向に曲がっている。腕が体の横でだらんと揺れながら、肩甲骨だけが異様な角度で動いている。首は左に九十度傾いたまま固定されていた。それでも確実に、こちらへ向かって進んでいる。


 頭部がゆっくりと、遥の方を向いた。


 目が合った。


 人間の目だ。でも中に何もない。星のない夜空みたいに、ただ暗い。


 そのとき——


 何かが屋根から降りてきた。


---


 一瞬だった。


 黒い影が空中で身をひねり、堕聖体の首筋に短刀を叩き込んだ。一撃。音もほとんどなかった。


 堕聖体が膝を折った。崩れるように、ゆっくりと倒れる。


 影が着地した。


 短い黒髪。赤い瞳。傷跡の多い腕に、二本の短刀。黒いコートを羽織っているが、どこにも飾り気がない。装備と体が一体化しているような、無駄のない立ち姿。


 年齢は遥と同じくらいか。でもその目は——ずっと年上の何かを、見てきた目だった。


 遥は倒れた堕聖体の顔を見ていた。


 最後の一瞬——その目から何かが流れた、気がした。涙ではない。でも確かに、何かが。


 【この者は、泣いていた】


 黒髪の少女が振り返った。


「……邪魔」


 低い声だった。遥とセラフィーナを一瞥して、それだけ言った。


「足手まといは来るな」


 二体目の足音が近づいている。彼女はすでに向きを変えていた。


---


「来い」


 別の声が、遥の背後から聞こえた。


 振り返ると、白髪交じりの長髪の老人が立っていた。いつからそこにいたのか、気配すら感じなかった。古びた外套。片目を眼帯で覆い、顔中に古い傷跡がある。


 遥を見ているその目だけが——異常に鋭かった。


「あなたは」


「ガルドール。聖痕院の院長だ」


 堕聖体を狩ることを使命とする者たち——聖痕院の、長。


 それだけ言って、老人は歩き始めた。


 遥はセラフィーナを見た。彼女は「行きましょう」と小さく頷いた。


---


 着いたのは、市民区の端にある古い建物だった。


 古鍛冶場ふるかじば——聖痕院の本拠地だ。かつては本当に鍛冶場として使われていたのだろう。石造りの大きな建物で、煤けた煙突が三本突き出している。窓には鉄格子。入口の扉は分厚い鉄製で、いかにも「ここで戦う者たちが住んでいる」という威圧感がある。


 ガルドールが扉を叩くと、内側から鍵が外れる音がした。


 中は広い空間だった。木製の訓練用の的。武器架け。薬品の棚。天井から下がるランタン。壁には堕聖体の出没記録らしき地図。——そして、数人の若い男女が、遥を見ていた。


「転移者って聞いたけど」


 誰かが言った。声をひそめているが、はっきり聞こえた。


「えっ、思ったより普通じゃないですか」


「弱そう」


「こんなのが聖痕者せいこんしゃになれるんですかね」


 聖痕者——堕聖体を狩ることを仕事とする、この聖痕院の構成員たちだ。


 その瞬間、セラフィーナが一歩前に出た。


「弱くないです!」


 全員が振り向いた。


「この人は昨夜、廃墟で堕聖体と同じ空間にいて、声も出さず、息を殺して、ちゃんと状況判断していました。あなたたちは見てもいないのに判断しているんです。失礼だと思いませんか!」


 しん、と静まり返った。


 遥は何も言わなかった。


 セラフィーナが振り返って、少し顔を赤くした。「……出すぎましたか」


「いいえ」


 遥は小さく答えた。


 そのとき——


「こっちへ来い」


 ガルドールが、奥の扉を開けていた。


---


 小さな部屋だった。机と椅子が二つ。ランタンが一つ。


 ガルドールは椅子に座らなかった。壁に背を預けて腕を組み、遥を見た。


 長い沈黙があった。


 遥も黙って立っていた。


 老人が、ゆっくりと口を開いた。


「転移者か」


「はい」


「覚醒度は」


 覚醒度——神域存在をどれだけ知覚できるかを示す値、とセラフィーナから聞いた。数値が高いほど「見えないものが見える」。高すぎると、精神が保たなくなるらしい。


「まだ測定したことがありません」


「……そうか」


 また沈黙。老人の目が遥の目をじっと見た。何かを確認するように。あるいは——すでに答えを知っていて、それを確かめているように。


 やがて、唇の端がわずかに上がった。


「来ると思っていた」


 遥は何も言えなかった。


 その言葉の重さが、どこから来るのか——まだ、分からなかった。


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