第2話「聖女と血の施院」
堕聖体が遠ざかって、しばらくの沈黙があった。
遥はそれを破った。
「俺は、別の世界から来ました」
端的に言った。
セラフィーナがゆっくりと振り向いた。ランタンはまだ消えたままだ。暗がりの中でも、彼女の目が少し大きくなったのが分かった。
「別の……世界」
「日本という国です。こことは全然違う場所で、魔法も聖脈もない。今日の昼まで、大学院で古代文書の研究をしていました。それが、何かの拍子で——あの光の渦に引き込まれました」
セラフィーナはしばらく黙っていた。
それから、一度だけ深く息を吸った。
「……転移者、ですね」
「転移者?」
「昔から、稀にいると記録にあります。別の世界から来る人。ただ、わたし自身が会うのは初めてで——」
そこで彼女は口を噤んだ。何か言いかけて、止めた。
代わりに言ったのは、こうだ。
「今夜は廃墟に隠れましょう。夜明けになったら血施院へ行きます。怪我を治さないといけない」
それだけだった。
驚きも、否定も、大げさな同情もなかった。
遥は少し、拍子抜けした。
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「あなた、元の世界ではどんなものを食べていましたか?」
夜明け前の廃墟を歩きながら、セラフィーナが聞いてきた。
「……怪我人への最初の質問がそれですか」
「気になったんです! ずっと我慢していたんです!」
遥は傷のある腕を押さえながら、少しだけ笑った。
この世界に来て、笑ったのは初めてだ。
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セラフィーナに連れられて、遥はヴェイルハルムの壁の内側へと入った。
城門を抜けると、世界が変わった。
廃墟ではなく、生活がある。石畳の路地。煤けた看板が風に揺れる商店。水汲みをしている老人。どこかで子どもが走っている声。
でも、どこか——暗い。
建物の壁が黒ずんでいる。窓が少ない。すれ違う人々の目が、どこか虚ろだ。活気はあっても、何かが抜け落ちているような。
遥はそれを観察しながら、セラフィーナの後をついて歩いた。
「こっちです。血施院はもうすぐ——って、あれ?」
セラフィーナが路地の角で立ち止まった。
「どうしましたか」
「曲がる場所を間違えました」
「さっきも迷ったと言っていませんでしたか」
「この街で生まれ育ってるんですけど、なんか毎回迷うんです」
「どういうことですか……」
遥は小さく息を吐いてから、路地の先を見た。石造りの壁に古代語混じりの文字で施設名が書かれた看板がある。
——読める。
「あっちです。施院の看板が見えます」
「え、あんな遠くで読めますか? 文字が小さいのに…」
「目がいいので」
半分は本当で、半分は嘘だった。問題は「読めた」ことの方だ。あの文字体系は、昨夜の廃墟にあった碑文と同じ系統だ。それが読めるということは——
遥は考えるのをやめた。今は怪我の治療が先だ。
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血施院は、石造りの中規模な建物だった。
中に入ると、待合室に十数人の市民が座っている。傷を負った者、顔色の悪い者。白い服を着たスタッフが忙しく動き回っている。現代の診療所に、少しだけ似ていた。
「あ、ヴァルモン修道女が帰ってきた」
「また変なの拾ってきた」
スタッフから声が飛んできた。
「変なのじゃないです! 怪我人です!」
セラフィーナが胸を張って言う。遥は「変なの呼ばわりされてる」と心の中で思ったが、黙っておいた。
処置室に通された。セラフィーナが手際よく道具を準備し始める。
「聖脈術というのは何ですか」
「聖脈を使った治癒技術です。傷の修復を大幅に早めます。少し痛いですが——大丈夫ですか? 血が苦手という人もいるので」
「大丈夫です」
「では」
セラフィーナが小さなガラス瓶を取り出した。中に深い赤色の液体が入っている。それを遥の傷口に少量、注いだ。
熱い。次に痛い。でも——何かが起きている感覚がある。傷口の奥から、細胞が急速に修復されていくような。
「すごいですね」
「でしょう!」
遥は治療を受けながら、ふと処置室の外——待合室の様子を見た。
扉が少し開いていた。別のスタッフが、腕を差し出した患者に同じ赤い液体を注いでいる。定期投与だろう。腕に注射跡のある患者が何人かいた。
その瞬間——遥の視界に、何かが混じった。
一瞬だけ。
患者の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。首の角度がおかしくなった。関節が逆方向に曲がった。昨夜、廃墟の外を通り過ぎた「あれ」と同じ形に——
瞬きをした。
次の瞬間、患者は普通の中年男性に戻っていた。ただ疲れた顔で、腕を差し出しているだけだ。
「……大丈夫ですか?」
セラフィーナが遥の顔を覗き込んだ。
「大丈夫です」
遥は視線を手元に戻した。
幻覚か。あるいは——自分が見えているものが、幻覚の方ではないか。
今は、まだ聞けない。
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治療が終わると、セラフィーナが「待合室で少し休みましょう」と言った。
椅子に座って一分も経たないうちに、彼女は前のめりになった。目が輝いている。
「聞いてもいいですか。元の世界のこと」
「どうぞ」
「どんな食べ物があるんですか! 魔法はあるんですか! 神域存在みたいな存在は? あと服の素材は、あの生地は何ですか! あと——」
「一つずつお願いします」
セラフィーナが口を押さえた。「すみません、止まらなくなって」
「食べ物から行きましょうか」
遥は少し考えた。ラーメン、コンビニのおにぎり、自動販売機——どこから説明すればいいか分からないが、順番に話した。セラフィーナは目を丸くしながら、何度も「嘘ですか」「なんですかそれ」と割り込んでくる。
悪くなかった。
この世界に来てから初めて、普通に話せていた。
「ヴェイルハルムのことも教えてもらえますか」
「もちろんです!」
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ヴェイルハルムには四つの大きな組織がある、とセラフィーナは説明した。
聖脈教会、霊眼学院、深淵盟、そして聖痕院。
「教会はわたしたちです。聖脈で人々を守り、導きます。学院は——血を使わない研究をしている変わった人たちです。嫌いじゃないですが」
「深淵盟はどんな組織ですか」
彼女の表情が少し曇った。
「よく知りません。秘密の組織で、怖いと聞いています。聖痕院は堕聖体を狩る人たちです。教会とは仲がよくないですが、必要な存在だと思います」
「堕聖体というのは、昨夜見たものですね」
「そうです。昔、この街で大きな事故があって——大啓示夜というんですが——それ以来、街の外に堕聖した人間が増えました。一度完全に堕聖すると、戻る方法はなくて」
遥は昨夜の歌声を思い出した。助けてくれ、と繰り返していたあの声。
「治す方法はありますか」
「完全に堕聖する前なら、聖脈の浄化術式で可能性があります。でも、完全な堕聖は……」
セラフィーナが静かに首を振った。
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施院を出ると、夕方になっていた。空が赤い。
遥は遠くに見える白い建物を見上げた。廃墟の多いヴェイルハルムの中で、その神殿だけが別格の威圧感を放っていた。
「白骸廟です」とセラフィーナが言った。「教会の本拠地です」
しばらく歩きながら、遥は考えた。帰る方法、この街の仕組み、先ほどの幻覚——考えることが多すぎる。
「これからどうするつもりですか?」
セラフィーナが聞いてきた。
「まずこの街を知りたいです。帰る方法を探すにも、何も分からなすぎます」
「では聖痕院に行きませんか。転移者の扱いに慣れていると聞きますし、過去にも何人か来たことがあるらしくて。この街で生きていく足がかりになると思います」
「転移者が過去にも?」
「はい。でも皆さん、長くは——あ、でも大丈夫だと思います! きっとあなたは大丈夫です!」
なぜか力強く言われた。
遥はセラフィーナを見た。困ったような、でも一生懸命な顔をしている。さっき施院のスタッフに「変なの」と言われたとき、ちゃんと抗議していた。
この街に来て、最初に助けてくれた人だ。
「案内してもらえますか」
セラフィーナが笑った。眩しいほどの笑顔だった。
「まかせてください!」
一秒後に路地で転んだ。
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夜が来た。
セラフィーナが小さく震える声で言った。
「今夜は、外に出ないでください」
遥は空を見た。月が欠けていた。半分以下。
廃域の方角から聞こえる音が、昨夜より多い。あの不規則な移動音の中に、何かが混じっている。もっと大きな何かが。複数の、もっと大きな何かが。
遥はセラフィーナを見た。
「聖痕院は今夜、稼ぎ時ですか」
「……多分、今夜が一番忙しい夜です」
彼女は遥と目が合った。
少し、泣きそうな顔をしていた。




