第1話「儀式と転落」
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最初に感じたのは、熱さだった。
次に、光。
そして——声。
【分かるか。お前には、分かるはずだ】
霧島遥は目を開けた。
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三十分前まで、遥は大学院の研究室にいた。
机の上には解読中の古代文書。エジプト語でも楔形文字でもない。既知のどんな言語体系にも属さない謎の文字列を、遥は趣味半分で研究していた。専門の教授でさえ首を傾げる代物だ。
——まあ、なんとなく読めるような気がするんだよな。
それが間違いだった。
最後の一行を声に出した瞬間、部屋の温度が急上昇した。床が揺れた。本棚の本が一斉に落ちた。そして——何もない空間から——光の渦が出現した。
「え、待って待って——」
引力のようなものが遥を掴んだ。
抵抗する間もなかった。足が浮いた。視界が白くなった。体の輪郭が、溶けるように消えていく。
光の渦に呑み込まれる一瞬——空が見えた。
ありえない星座だった。
今まで見たことのない、どんな図鑑にも載っていない星の配置が、一瞬だけ遥の目に焼きついた。まるで誰かが意図的に並べたかのように。まるで文字のように。
【ようこそ。待っていた】
そして——全てが暗くなった。
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目が覚めたとき、遥は冷たい石畳の上にいた。
上半身を起こす。全身が痛い。腕に擦り傷。足首に鈍い痛み。頭がじんじんする。
周囲を見渡した。
廃墟だった。
かつて建物だったと思われる石造りの壁が、あちこちで崩落している。窓枠に窓はない。床には割れた陶器の破片と、名前も分からない植物が伸び放題だ。空には分厚い雲が垂れ込めていて、太陽の位置さえ分からない。
「……日本じゃない」
当たり前の結論を、遥はほぼ無感情に呟いた。
異世界転移か。それ以外に説明がつかない。
落ち着いているのは、おそらくパニックになる余裕もないからだろう。
まず状況確認だ。怪我の状態——動ける。場所——廃墟の一階。天気——曇り、気温は低め。音——
遠くで、複数の何かが動いていた。
足音ではない。もっと重くて、でも足音より軽い。引きずるような、リズムのない、不規則な移動音だ。
そのとき——
【遠くで誰かが歌っている。歌詞が……分かる】
歌だった。廃墟のどこかから、声が流れてくる。人間の声に近い。でも、どこかがおかしい。音程のない、感情の欠落した歌声。その言葉の意味が、遥には——なぜか——分かった。
助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ、助けて——。
遥は立ち上がりかけて、止まった。
人の声ではない。たぶん。
「あの、すみません」
声が、頭上から降ってきた。
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見上げると、壊れた二階のバルコニーに人がいた。
少女だった。
年齢は遥より少し下だろうか。銀白の長い髪が夜の空気の中で揺れている。白い修道服を着て、右手に小さなランタンを持っていた。青紫の瞳が、遥を心配そうに見下ろしていた。
ランタンの光の中に立つ彼女は、この廃墟にひどく似合わなかった。
「あなた、天使ですか」
遥は呟いていた。
少女がぱっと顔を赤くした。「ちち、ちが——って、あっ」
ずどんっ、という音がした。
照れて後退した拍子に、バルコニーの段差でつまずいたのだ。少女がすとんと下に落ちた。二階分の高さ。
遥は反射的に立ち上がった——が、少女は一回転して着地し、ふらふらしながらも立っていた。
「だ、大丈夫ですか⁉」
「……二階ぐらいなら聖脈術で何とかなるので」
顔がまだ少し赤い。
「天使じゃないですよ。ただの修道女です」
「分かっています」
分かっていたが、言ってしまった。遥は頭を押さえた。
「怪我はありますか?」
「あります、色々と」
「見せてください」
少女が遥の腕を取る。手際がいい。慣れた動きだ。
「なぜ会話が成立しているんですか。あなたの言葉を、俺は知らないはずです」
「え? 普通に話してますよね?」
全言語理解、と、遥の脳裏に何かが呟いた。まるでシステムメッセージのように。
遥は気にしないことにした。
「お名前は?」
「セラフィーナ・ヴァルモンです。ヴェイルハルムの、聖脈教会の修道女で——」
そこで、遠くで音がした。
外から。
先ほどの不規則な移動音が、急速に近づいてきている。
セラフィーナの表情が一瞬で変わった。ランタンをすばやく消す。遥の腕を掴む。
「来ちゃいけないものが来ました。絶対に声を出さないで。息を潜めて」
廃墟の窓の外を、何かが通り過ぎた。
遥は動かなかった。
ただ、窓の外を——見た。
月のない夜だった。それでも遥の目には、その「何か」の輪郭が見えた。人間だったものだ。形は人間に近い。でも動きが違う。関節が逆方向に曲がっている。首の角度がおかしい。
そしてそれは——歌っていた。
先ほど遥が聞いた、あの歌声と同じだった。意味が崩壊した音の羅列。でも遥には、その意味が聞き取れた。
*助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ、助けて——*
遥は唇を噛んだ。
やがて音が遠ざかる。
セラフィーナが小さく息を吐いた。「行きました。よかった」
「あれは何ですか」
「堕聖体です。昼間は出ませんが、夜は壁外から入ってきます。今夜は月相がよくない夜なので、壁内にも——あなた、大丈夫ですか? 顔が青い」
「大丈夫です」
嘘だった。
でも今は関係ない。
遥は空を見上げた。雲が割れた一瞬、星が見えた。
知らない星座だった。当然だ。ここは別の世界なのだから。
でもその星々が——まるで転移の直前に焼きついた光景と、同じ形に見えた。
まるで文字のように。まるで何かを語りかけているかのように。
【よく来た。覚えておけ。お前がここにいる理由を、いつか知ることになる】
「……助かった、と思いました」
遥は呟いた。
「でも——」
雲が戻る。星が消える。
遥の目がセラフィーナに戻った。
彼女の背後の闇の中に、遥の目にだけ見えるものがあった。引きずるような足音の痕跡。壁の向こう側、廃域のさらに奥で何かが動いている気配。そしてその気配は——一つではなかった。
「ここは——相当ヤバい場所です」
何分初めてのもので、至らぬ点も多々あるかと存じますが、なにとぞご了承ください。




