第23話「帳簿の赤い数字」
セラが珍しく静かだった。
朝から古鍛冶場の食堂で何かを書いていた。小さな帳面に数字を並べていた。
「なんですか、それ」
遥が聞くと、セラが顔を上げた。
「血施院の帳簿の写しです。定期業務で確認できる分だけ」
「何を調べているんですか?」
「投与量と回復率を照合しています。ずっと気になっていたので」
セラが数字が並んだ帳面を差し出した。
縦に月ごとの聖脈剤の投与量。横に患者数と——そして、回復率。
投与量が増えている。患者数も増えている。
でも、回復率だけが——下がっている。
「これ、どのくらいの期間のデータですか?」
「二年分です。去年からずっと写し取っていました」
「去年から」
「……なんとなく、おかしいなと思って」
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午後、セラが血施院へ向かうと言った。
遥は「一緒に行きます」と言った。
セラが少し迷った顔をした。
「帳簿の確認業務です。遥さんには面白くないと思いますが」
「構いません」
「でも——」
「行きます」
「……分かりました」
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血施院は聖区の外れにある。
白い壁の建物で、入口には常に数人の待合客がいる。
遥が入った瞬間、何度か来た時と同じ感覚があった。
目が虚ろな患者が多い。話している人間がいない。それぞれが椅子に座って、ただ待っている。
誰もここにいたくないはずなのに、毎週来ている。
習慣と——それ以上の何かで。
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セラが帳簿室へ向かった。遥は廊下で待った。
三十分ほどで戻ってきたセラは、帳面に何かを書き写していた。眉がわずかに寄っていた。
「何かありましたか」
「……ちょっと待ってください」
セラが帳面をめくった。数字を確認して、また戻る。
「遥さん、ここを見てください」
特定の週の投与量が急増していた。月ごとではなく、週単位で見ると——三ヶ月ごとに同じ周期で数値が上がっている。
「定期的に増やしているんですか」
「そうなんです。でも——どの帳簿にも理由が書いていないんです。季節性のものでもなく、患者数の増加でもなく」
「他に何か」
「補助帳簿に、一行だけ記述がありました。『強化調合V3』という文字です。意味が分からなくて、詳細を調べようと記録室に入ろうとしたんですが——」
「鍵がかかっていた」
「はい。主任司祭に聞いたら『立入禁止の区域です』と言われました。帳簿業務の確認のために入ると言ったら——『その記録は別管理で、補助作業員には公開されていません』と」
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血施院を出た後、セラが「もう一度だけ見てもいいですか」と言って、帳面の数字を改めて確認し始めた。
遥は隣で待った。
しばらくして、セラが「……あれっ」と言った。
「どうしましたか」
「この列、さっきから足し方がおかしいな——あ」
帳面を逆さにしていた。
「……縦と横が逆でした。ごめんなさい、今のは間違いです」
「どちらにしても、投与量の増加と回復率の低下は変わりませんよ」
「そうなんですよね。……それが一番問題なんですよね」
セラが帳面を正しい向きに直した。少しだけ顔が赤かった。
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市民区の路地に入ってから、遥が言った。
「強化調合V3というのは、何だと思いますか」
セラが少し考えた。
「聖脈剤の調合方法には、いくつかのバリエーションがあります。V3というのは——たぶん第三世代の改良版だと思います」
「改良の方向は」
「効果を高める方向か——持続時間を延ばす方向か、どちらかだと思います」
遥はもう一つの可能性を考えた。
投与量が増えている。回復率が下がっている。特定の周期で強化調合を使っている。
「依存性を高める方向に改良することは——できますか」
セラが足を止めた。
振り返ると、セラの顔から笑顔が消えていた。
「……どういう意味ですか」
「患者が通い続けるように、次の投与を求め続けるように——意図的に設計することは、技術的に可能かどうかだけを聞いています」
セラが長い間、黙っていた。
「……できます。聖脈剤の調合に精通していれば」
「教会には、精通している人間がいますか」
「います。叔父様が——」
セラが言葉を止めた。
「……叔父様が、調合研究の第一人者です」
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市民区の路地は静かだった。
向こうから修道服の集団が歩いてくる。清浄姉妹会の姉妹たちだ。誰も顔を上げない。
遥は何も言わなかった。
セラが考えていた。
「……証拠が必要です」
「帳簿のコピーはありますか?」
「写してきました」
「大切にしてください」
セラが遥を見た。
いつも笑顔のセラが——今は違う顔をしていた。
「遥さんは——これが、意図的だと思いますか」
答えを急がせるのは良くない。でも、正直に言うことが失礼だとも思えなかった。
「確認が必要です。でも——データは一致しています」
セラが前を向いた。
「……叔父様に、直接聞きます」
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帰り道、遥はセラの横顔を見た。
普段の猪突猛進とは違う表情だった。
信じたくないものを前にして——それでも確かめようとする顔だ。
【聖脈が変わった。変えられた。誰かが——ゆっくりと、気づかないように——】
声が短く入ってきた。
遥は空を見なかった。




