第22話「もう一つの声」
リーセから書簡が来たのは、三日後のことだった。
「無限架へ来い。調べたいものがある」
それだけの文だった。差出人の名前と、来訪日時の指定と、「急ぎの用でもある」という一行。
遥は当日、学院区に向かった。
---
無限架は相変わらず広かった。
入口の受付で名前を告げると、研究員が二階の資料室へ案内してくれた。中に入ると、リーセが長い机の前に座って何冊もの資料を広げていた。
「来たか」
「お呼びでしたので」
「座れ」
机の向かいに椅子があった。遥が座ると、リーセが資料を一冊差し出した。
「大啓示夜以前の観測記録の抄録だ。百五十年前から百二十年前まで、二十三人の観測士の記録が収録されている」
「転移者の記録も含まれていますか?」
「含まれているはずだ。ただ——転移者の項目は別名義になっている可能性が高い」
「なぜ」
「転移者だと学院に知れると、研究対象として拘束される恐れがある。当時の記録にそういう事例がある」
遥は資料を受け取った。
---
作業は二時間続いた。
リーセが要点に印をつけながら読む。遥が古代文字の表記を確認する。それだけの繰り返しだ。
声は少ない。それで良かった。
六冊目を読んでいたとき、リーセが手を止めた。
「……一つだけ、聞いていいか」
「はい」
「声は——聞こえるか」
遥が資料から目を上げた。
リーセは遥を見ていた。いつもと同じ無表情だが、少しだけ視線が静かだ。何かを確かめようとしている目だ。
「聞こえます」
「どういう声だ」
「複数の声で、言葉が断片的に聞こえます。『扉』という言葉が多い。来い、と言われることもある。意識にじかに入ってくる感じで」
遥が答え終わると、リーセが一度だけ目を閉じた。沈黙が長かった。
---
「……私にも」
声が低かった。
「私にも、聞こえる」
遥は黙っていた。
リーセが眼鏡を押し上げた。視線を机の上の資料に落とした。
「学院内では誰にも言っていない。学院長だけは——三年前に報告した」
「学院長は何と?」
「『記録しておく』だけだった」
「誰にも言わなかった理由は」
「覚醒度が高いと知られると、研究者としての扱いが変わる。研究対象になる。……私は研究する側でいたい」
短い言葉だった。でも、それで充分だった。
「あなたが聞こえる声と、私が聞こえる声は——たぶん違う」
「どう違うのですか?」
「あなたは神域存在の声を聞いている。私が聞こえるのは——記録だ」
「記録?」
リーセが棚の方を指した。
「この図書館にある文字が、たまに語りかけてくる。読んだことのない文書が、内容を知らせてくることがある。……正確には分からないが、そういう感覚だ」
遥は棚を見た。
高い天井まで届く棚。びっしり並んだ文書と本。
「今も聞こえていますか」
「……今は静かだ」
---
そのとき、棚の端で本が動いた。
音はなかった。ただ、一冊だけ、棚から飛び出すように少し前に出てきた。
二人が同時にそちらを見た。
誰もいない。窓は閉まっている。
遥が立ち上がって近づいた。飛び出してきた本は、古い革装丁だった。表紙に文字がない。
「これは……」
「……今日まで存在を知らなかった」
リーセの声が、少しだけ速かった。
遥が本を取った。開いてみると、中は古代文字で埋め尽くされていた。全言語理解が、動き始める。
「——常夜の廻廊観測記録、第一次調査。記録者——」
名前が読めた。
「リーセ・アーベント、と読めますが」
「……違う。私ではない。ただ——同じ名前だ」
---
二人が並んで本を読んだ。
棚の前に立ったまま、一ページずつ確認していると、机の上に積み上げていた資料が崩れた。
大きな音がした。
振り返ると、資料の山がまとめて床に落ちていた。リーセが崩した体勢で中心にいた。
「……支えますか?」
「問題ない」
「落ちた本が——」
「回収する」
「手伝います」
二人で床に落ちた資料を拾い集めた。同じ一冊を同時に手にして、一瞬だけ近い距離になった。
リーセが即座に立ち上がった。
「……ありがとう」
短かった。でも、リーセから感謝の言葉を聞いたのは、初めてだった気がした。
---
帰り際、リーセが言った。
「今日のことは——」
「誰にも言いません」
リーセが少し目を細めた。否定でも肯定でもなかった。
「また来い」
遥が出口に向かうと、リーセが後ろから小さな声で言った。
「……声が聞こえる日と聞こえない日がある。今日は——聞こえた」
遥は振り返らなかった。
---
廊下を歩いて、出口に近い窓の前を通ったとき。
空を見た。夕暮れの空に、ありえない位置に、ありえない並びで星が見えた。
まだ夕暮れだというのに、三つの星が等間隔に並んでいた。
昨夜も、一昨夜も——同じ配置で。
遥は足を止めずに歩き続けた。
【二人が聞こえる。二人が——扉に近い】
声が入ってきた。
遥は答えなかった




