第21話「師匠の言葉」
翌朝、ガルドールが遥を呼んだ。
伝言はそれだけだった。イグニスが食堂の扉を叩いて「院長が呼んでる」と言い残した。それだけだ。
朝食の途中だった。碗を置いて立ち上がると、セラが「あっ」と声を上げた。
「聞いていいですか——」
「ついてくるな」
遥が言う前にイグニスが言った。セラが行きかけた足を止めて、ちょっとだけ肩を落とした。
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小部屋には先客がいた。
リーセだ。いつもの革袋を抱えて窓際に立っている。ガルドールは机の前に座り、昨夜の冊子を閉じていた。
「昨夜から解読を続けた」
リーセが先に口を開いた。
「全部は読めない。ただ——後半に数値の表がある。百五十年間にわたる扉の観測記録だ」
遥は椅子に座った。ガルドールが遥を一瞥して、それからリーセを見た。「続けろ」という意味だろう。
リーセが冊子を開いた。
数列が並んでいる。縦軸と横軸。中央に囲み罫線。数値は規則的に増えていたが、最後の三行だけが突然跳ね上がっている。そして——空白。
「この急変が、行方不明になる直前の時期に一致する」
「どのくらい前ですか」
「百二十八年前。大啓示夜の二十二年後だ」
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ガルドールが口を開いた。
「転移者の話をする」
遥は老人を見た。
「百五十年前に、一人来た」
冊子を指先で軽く叩きながら、ガルドールが話した。
「男か女かも今の記録では分からない。ただ——この世界の言語に三日で馴染んだ。古代文字が読めた。そして——」
老人の指が止まった。
「神域存在の声が、聞こえた」
遥は黙っていた。
「覚えがあるだろう」
「はい」
ガルドールがうなずいた。ほとんど動かない首の、わずかな傾きだ。
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「その転移者は、扉を閉じようとした」
「……大啓示夜の前に」
「そうだ。扉が開きかけている兆候を感知して——封じることを試みた」
「それで大啓示夜が起きた、ということですか」
「因果は明らかではない。ただ——大啓示夜は、その者が行方不明になった後に起きている」
遥は少し考えた。扉を閉じようとした者が消えた。二十年後に扉が開いた。
「その転移者は今も——」
「分からない」
ガルドールが短く言った。断言ではなく、本当に分からないという口調だった。
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リーセが冊子の後ろのページを開いた。
「もう一つある」
「追記文の前のページに、消えかけた文字がある」
遥が覗き込んだ。
インクが薄い。紙の端に、小さな一文字だけ。
全言語理解の力が動いた。
——「霧」。
読めた。でも意味が分からない。この世界の古代語にこの字は稀だとリーセが言っていた。
「これは」
「固有名詞に使われることがある表記だ。名前、もしくは地名」
「名前」
遥が繰り返した。
ガルドールが何も言わなかった。遥がガルドールを見ると、老人は冊子を見ていた。
「院長は」
「……名前は知っている」
「今は言えませんか」
老人が顔を上げた。
「今は言わない方がいい」
理由がない。だが、ガルドールが「今は言わない」と言う時、そこには必ず理由がある。三ヶ月でそれだけは分かってきた。
「……分かりました」
ガルドールが小さく眉を動かした。
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部屋を出ると廊下にセラが立っていた。
「……おはようございます」
「来るなと言った」
廊下の角からイグニスが顔だけ出した。セラが首をすくめた。
「心配で——」
「心配なら来るな。余計な心配だ」
「あぅ」
遥はそれだけを見て、食堂へ向かった。
朝食が冷めかかっていた。座って食べていると、向かいにイグニスが座った。
「……食えていなかっただろう」
「ありがとうございます」
「感謝するな。習慣だ」
遥は黙って食べた。
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その夜、屋根の上で星を見た。
「霧」という一文字が頭の中で繰り返していた。
百五十年前の転移者の——何か。名前の一部か、それとも別の何かか。
ガルドールは知っている。でも言わない。
言わないということは——言えない理由があるということだ。
遥は空を見上げた。
月が細い。悪夢夜の後遺症で、しばらくはこうだ。
【名を持つ者が来た。また——名を持つ者が来た】
星が、少しだけ近かった。




