第20話「扉はまだ閉じていない」
遥は食器を洗っていた。
誰かがやらないと誰もやらないので、悪夢夜の翌朝というのはこういう状態になる。残骸のように積み上がった皿。セラが大量に作った朝食の痕跡。全員が食べて、全員が寝落ちしていった食堂に、自分一人が残った。
「こういうのは誰かがやる仕組みですか」
井戸水で食器を洗いながら聞くと、背後からイグニスの声が返ってきた。
「黙って洗え」
遥は洗った。
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水を切って皿を棚に戻したとき、声がした。
「遥」
ガルドールだ。
振り返ると、老人が食堂の入口に立っていた。いつからそこにいたのか、分からない。
「小部屋へ来い。話をする」
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廊下に出たとき、もう一人が来た。
リーセ・アーベントだ。
観測器具の入った革袋を肩にかけ、眼鏡を押し上げながら廊下を歩いてくる。急いでいるわけでも、緊張しているわけでもない。ただ、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
遥を見て、それからガルドールを見て。
一呼吸おいた。
「……私も話がある。院長も同席か」
「構わない」
ガルドールが答えた。
リーセの目が少し動いた。意外だったのかもしれない。遥も少し意外だった。
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三人で小部屋に入った。
机と椅子が二つ。ランタンが一つ。
ガルドールが壁に背を預けて腕を組む。リーセは机に革袋を置き、立ったままで遥を見た。
沈黙。
「どちらが先ですか」
遥が聞くと、ガルドールが視線だけで応えた。
「彼女が先だ」
リーセが軽く目を細めた。肯定とも驚きとも取れない表情だった。
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「学院には、公開していない記録がある」
リーセが話し始めた。
革袋から取り出したのは、薄い冊子だった。和紙に似た紙に細かい文字がびっしりと書かれている。インクの色が二色ある。黒と、赤。
「百五十年前の大啓示夜の後、学院は二十年かけて独自調査を行った。その報告書だ。当時の学院長が最高機密に指定した」
「なぜ非公開に」
「……記録の内容が、不都合だったから」
リーセが冊子を机の上に置いた。
遥は近づいて表紙を見た。
古代文字で何かが書かれている。全言語理解の力が働いた。
——扉の残響に関する観測記録。第七次調査——。
「扉が、まだ閉じていない」
声に出ると、リーセがわずかに息を吐いた。
「そうだ。大啓示夜から百五十年が経った今も、扉は完全には閉じていない。学院長エリュシア・ヴォルテンは二十年前にそれを確認し、公開を禁じた」
「理由は」
「分からない。命令だった。私は五年前に記録の存在を知った。内容を理解したのは三年前だ」
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遥は冊子の最初のページを開いた。
図が描かれている。同心円状の図形。中心に点が一つ。その点から細い線が複数、外側へ伸びている。線の先には、それぞれ別の記号。
「この図は」
「扉の断面図だ。大啓示夜の時点では中心が開いていた。現在は——」
リーせが指で中心の点を示した。
「ほぼ閉じている。しかし、完全ではない」
「どのくらい漏れていますか」
「月相の悪夢夜に観測できる程度の微量だ。しかし——」
彼女が一瞬、止まった。
「微量でも、百五十年漏れ続けている」
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沈黙が落ちた。
遥は図を見続けた。
微量でも、百五十年。
市民区の堕聖体が増えているのも、覚醒度が高い者が生まれやすくなっているのも、月相の悪夢夜の規模が少しずつ大きくなっているのも——全部この「漏れ」の蓄積だとしたら。
「学院長は、それを知っていて」
「ああ」
「公開しなかった」
「理由は分からない。ただ——公開していれば世界が動いていた。教会も、深淵盟も」
ガルドールが壁から離れた。
それだけで部屋の重心が変わる気がした。老人はリーセを一瞥し、それから遥を見た。
「お前は古代文字が読めると言っていたな」
「はい」
「その記録の後半を見てみろ。私には読めない文字がある」
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リーセが冊子の後半を開いた。
途中からページの様子が変わっていた。整然とした文字の記録ではなく、一人の人間が書き殴ったような文字の列。インクが所々かすれている。筆圧が均一でない。
これを書いた人間が焦っていたことが、字形に滲んでいた。
「これは」
「報告書の余白に書かれていた。誰かが後から追記した」
遥は目を走らせた。
——扉は閉じない。扉を最初から閉じようとした者が、今も閉じさせないようにしているから——
「……誰かが意図的に」
「続きを」
遥は読んだ。
——次に来る者は気をつけろ。扉の声を聞くことができる者は、必ず目をつけられる——
視線が次の行に動いた。
そこで——文章が止まっていた。
行の途中で。
まるで書いた人間が、書くことを止めさせられたように。
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「誰が書いたのか分かりますか」
遥が顔を上げると、リーせが答えた。
「筆跡の分析はしている。百五十年前の記録の中に同じ筆跡が一つだけある」
「それは」
「当時の観測士記録に名前がある。しかし——」
彼女が眼鏡を押し上げた。
「その人物は大啓示夜の翌年、行方不明になっている。公式記録では死亡扱いだ」
部屋が静かだった。
ランタンの炎が揺れた。
ガルドールが低い声で言った。
「……続きは明日だ。今夜は全員が疲れている」
「まだ聞くことがある」
「明日」
リーせが一呼吸おいて、冊子を閉じた。
「……分かった」
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部屋を出ると、廊下にセラが立っていた。
「あの——」
壁に背をつけて、両手を胸の前で組んでいる。扉が閉まる音を聞いていたのだろう。
「一緒に聞いていいですか、というのは、やはり……」
「聞いていいとは言っていない」
ガルドールが一言だけ言って、廊下を歩いていった。
セラが小さく「あう」と言った。
「……後で教えてください」
「後で話せることがあれば」
「ありますよね? 遥さんが聞いた話って、全部ちゃんと——」
「セラ」
廊下の角から、イグニスが顔だけ出していた。
「昨夜の装備の手入れが残ってる」
「あっ」
セラが走った。
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リーせが廊下に残った。
遥が言った。
「一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「行方不明になった観測士。学院長は、その正体を知っていると思いますか」
リーせが少し間を置いた。
「……知っている。おそらく」
「なぜ公開しないんでしょう」
「それが分かれば——」
彼女が廊下を歩き始めた。
「最初から聞かない」
遥はその背中を見ていた。
廊下の突き当たりで、リーせが振り返らずに言った。
「明日。続きを話す」
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その夜、遥は古鍛冶場の屋根に上っていた。
月が細い。悪夢夜の翌日は月がほとんど見えない。代わりに、星が多い。
——次に来る者は気をつけろ——。
頭の中で、文章が繰り返した。
百五十年前に誰かが書き残した警告だ。
「次に来る者」とは誰を指していたのか。
「目をつけられる」とは——誰に。
そして、文章を途中で止めた何かは——今もどこかに、あるのか。
屋根に風が来た。
【知るたびに、声が近くなる。まだ——もう少しだ】
空を見上げると、ありえない星座が一つ、また一つ、光っていた。




