第19話「病ム苦アル悪夢ヤ(後半)」
広場を離れた後も、戦闘は終わらなかった。
西側で何かが崩れる音がした。別の区域で聖痕者たちが動いているのが声で分かった。騎士団が東の壁際を固めている。学院の観測班が廃域の方角にいるという話が走り込んできた聖痕者の口から出た。
四つの陣営が、それぞれ別のことをしていた。連携は取れていない。
でも結果として——ヴェイルハルムの全方向に人が入っていた。
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次の堕聖体が来たのは、広場から北に三百メートルのところだった。
二体だった。大型ではないが、動きが速い。
今度は騎士団が先に来ていた。術式を使った。学院の研究員が一人、観測端末を持って周囲を記録していた。遥はそれを見て、手帳を開いた。
イグニスが跳んだ。二体目の動きを止めた。一体目が騎士団の術式で足を縫われ、そこをイグニスが断った。
終わったのは十五分後だった。
帰り際、騎士の一人と学院の研究員が、互いを無視して別方向へ歩き出した。
遥はその後ろ姿を見ながら、手帳に「四陣営、各自稼働。協力なし。ただし同一夜に同一目標」と書いた。
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三戦目が終わったとき、空がうっすら白み始めていた。
遥は覚醒度が何かを感知しているのに気づいた。
方角がある。北東。市民区の外れ、旧市街との境界に近い方向だ。
白い外套——ではなかった。白衣だった。
「リーセさん」
声が届いたかどうか分からなかった。白衣は止まらなかった。
遥はイグニスに「少し待っていてください」と言った。
「どこへ行く」
「すぐ戻ります」
返事を聞く前に走った。
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辿り着いたのは、石造りの建物が途切れた先の、空き地だった。
かつて何かの建物があったのだろう。石畳の跡が残っている。壁の残骸が二面だけ立っている。広くはない。でも空が開けている。
リーセが立っていた。
向かいに、月の使者がいた。
リーセの手には小さな器具があった。啓示の結晶とは形が違う。金属と水晶を組み合わせた、複雑な形をしていた。何かを計測しているのか、観測しているのか——リーセは動かず、ただそれを向けていた。
月の使者は動かず、リーセを見ていた。
リーセが何かを言が、声は聞こえなかった。
月の使者が——遥の方を向いた。
一瞬だけ。
それから、空に溶けるように、消えた。
東の空から、最初の光が差し始めていた。
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「リーセさん」
リーセが振り返った。眼鏡の奥の目が、遥を見た。一瞬、何かを探るような表情をした。それから「……来ていたのか」とだけ言った。
「何をしていたんですか」
リーセは手の中の器具を見た。「観測だ」
「月の使者を」
「……そうだ」
「一人で来たんですか」
「……」
答えなかった。
遥はそれ以上聞かなかった。聞けることと聞けないことがある。
二人で、朝の市民区を歩いて戻った。
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古鍛冶場に全員が戻ったのは、夜明けから一時間ほどが経ったころだった。
食堂に聖痕者たちが集まっていた。イグニスが先に戻っていた。若い聖痕者が何人か座っている。みんな疲れた顔だった。椅子に沈み込んでいる者も、壁にもたれている者もいた。
「西側が最悪だった」
「四体来た。四体」
「騎士団と学院が鉢合わせして一瞬もめた」
「もめてる場合じゃないのに」
「でも最終的には動いてたな。学院が観測データを共有して、騎士団がそれを使って術式を当てた」
「嫌々だろうけど」
「嫌々でも終わったならいい」
遥は記録を確認した。今夜の戦闘回数、場所、堕聖体の型。四陣営の動きが最終的には一方向に向いていた。
これが、今夜起きたことのすべてではない。でも、何かが変わった夜だった。
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食堂の扉が開いた。
セラフィーナだった。顔が汚れ、修道服には砂埃がついており、膝の布は剥がれかかっていた。両手に食材を抱えていた。
「朝ごはんを作ります!」
室内が一瞬、静かになった。
「……セラさん、膝が」
「大丈夫です! 食べないと動けませんよ! みんな頑張ったんだから、ちゃんと食べてください!」
誰かが小さく笑った。それが伝わって、食堂が少し緩んだ。
「手伝います」
「わたしも」
「あの、包丁どこですか」
「棚の右から二番目です!」
賑やかになり始めた食堂を、遥はイグニスの隣に座って見ていた。
イグニスは腕を組んで目を閉じていた。声が低かった。
「お疲れ様でした」
「うるさい」
それだけだった。でも、断らなかった。遥はそのまま隣にいた。
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食堂の床が、かすかに揺れた。
気づいたのは遥だけだった。
音が聞こえた——地面の下から。規則的ではなかった。不定形の、何かが移動するような音だった。
深淵道の方角だ。
声は来なかった。覚醒度は静かだった。でも何かが——今夜の間に、動いていた。
遥はそれを手帳に書いた。「地下、不定形の音。深淵道方向。時刻、夜明け直後」。
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ガルドールが食堂に入ってきたのは、セラの料理が並び始めたころだった。
室内を見回した。遥と目が合った。
「遥」
「はい」
「そろそろ話す時が来た」
遥は立ち上がろうとした。
そのとき、食堂の入口がもう一度開いた。
リーセだった。眼鏡を直しながら入ってきた。白衣が砂埃で汚れていた。室内を見渡して——遥を見た。それからガルドールを見た。
「一つ、話さなければならないことがある」
いつもの事務的な声だった。でも、その声には平坦さがなかった。
食堂の空気が変わった。
セラが鍋を持ったまま止まり、イグニスが目を開いた。若い聖痕者たちが顔を上げた。
ガルドールがリーセを見た。何も言わなかった。
リーセも何も言わなかった。
二人の間の沈黙が、何かを示していた。
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遥はその場に立ったまま、覚醒度がゆっくりと揺れるのを感じた。
【おかえり。次は——もっと、はっきり聞こえる】
声が消えた。
遥は自分が、その声に応えたいと思っていることに気づいた。
怖いという気持ちはある。でも、もう怖さの方が強く感じることはなかった。
朝の光が食堂の窓から入ってきていた。悪夢夜が終わった夜明けの光だった。
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遥が知ることになるのは——世界の真実の、氷山の一角に過ぎなかった。




