第18話「病ム苦アル悪夢ヤ(前半)」
走りながら、状況を把握しようとした。
古鍛冶場から東へ。市民区の路地が続く。遠くで何かが崩れる音がした。火ではない。石造りの何かが、圧力で壊れる音だ。
イグニスが前を走っていた。振り返らない。速い。
「東側の壁に三体」
短く言った。遥は聞いた。
「大きいのが一体。他のは普通サイズ。大きい方を先に潰す」
「分かりました」
「お前は記録係だ。近づくな」
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路地の出口で止まった。
広場だった。昼間は市場が立つ、石畳の広い空間だ。今は誰もいない。屋台の骨組みが一つ倒れていた。
広場の中央に、堕聖体がいた。
大きかった。人間の形は残っているが、腕が四本ある。膝が前にも後ろにも折れている。頭部がない——首から先が、ただの黒い空洞だった。高さは三メートルを超えている。
「でかいな」
イグニスが短刀を抜いた。
遥は手帳を出した。「数、形、動き方——」
「目を離すな」
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イグニスが走った。
大型の堕聖体が反応した。首のない頭部を——黒い空洞を、こちらに向けた。目がない。でも確かに見えている。何かで感知している。
イグニスが踏み込んだ。一撃目が左腕に入った。腕が落ちた。でも、腕が落ちた場所から何かが再生し始めた。
「聖脈に反応しています」
遥の隣で声がした。
セラフィーナだった。なぜかここにいた。修道服の裾が砂埃で汚れていた。膝に布が巻いてある。
「どうしてここに……」
「血施院に向かったら騎士団に封鎖されていて、迂回したら……」
「どこへ行くつもりだったんですか」
「怪我した人の手当てを——」
「分かりました。壁際にいてください」
「でも浄化術式なら私も——あの堕聖体、壁内の聖脈に引き寄せられている可能性があって、なら術式で——」
「分かりましたから——」
セラが踏み出した。
足が石畳の段差に引っかかった。
盛大に転んだ。セラフィーナは慌てて叫んだ。
「だっ、大丈夫です!」
大丈夫ではなかった。膝の布が剥がれていた。手を突いていた。
「……動かないでください」
「動けます!」
「動かないでください」
遥はセラを建物の陰に押し込んで、広場に目を戻した。
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イグニスが押されていた。
大型の堕聖体は四本の腕を使って空間を塞ぐように動く。速くはないが、一撃が重い。地面が揺れる。イグニスが石壁に追い込まれた。
遥は手帳を閉じた。
地面に転がっていた石材の破片を拾った。重さを確認して、腕を振る。堕聖体の空洞部分——首のない頭部に当たった。音は小さかったが、動きが一瞬止まった。
その一瞬でイグニスが距離を取った。
「余計なことをするな」
「大きい方が当てやすかったので」
舌打ちした。でも否定はしなかった。
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戦闘が続いた。
イグニスが右腕を断った。再生した。左脚に入った。よろけたが倒れなかった。
遥は石材を四個投げた。うち二個は外れた。でも動きを乱すことはできた。
十分が経ったころ、壁の向こうから聖脈騎士団が来た。白い鎧が五人。術式を三本放った。堕聖体の動きが急に鈍くなった。
イグニスがその隙に踏み込んだ。首の空洞の基部を断った。体が傾いた。もう一度。体が地面に落ち、黒い光が消えていった。
広場が静かになった。
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誰も話さなかった。
騎士の一人が遥を見た。遥はうなずいた。騎士は何も言わず、来た方向へ戻っていった。
セラが建物の陰から出てきた。「終わりましたか」
「終わりました」
「よかった……」
空の色を見た。まだ暗い。夜明けは遠い。
遥は手帳を見た。大型堕聖体の形状と動き方を書き留めていた。腕の再生パターン。反応する方向。落とすのに要した時間。
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空が変わった。
月が、先ほどより低い位置にある——気がした。
違う。月が動いたのではない。何かが、月の前に立っていた。
広場の端に、人影があった。
背が高い。白い外套。輪郭が滑らかすぎる。影が地面に落ちているが——その影の向きが、月光と合っていない。
月の使者だ。
遥はそれを知っていた。アウロラに言われた。高い覚醒度を持つ者にだけ見える。イグニスには、今も見えていない。
覚醒度が揺れた。
【今夜だけ、はっきり見える。お前には分かるはずだ。扉を——】
声が止まった。
月の使者が、遥の方を向いた。
顔があった。人間の顔だった。性別が分からない。年齢が分からない。でも——笑っていた。
静かな、穏やかな、笑顔だった。
戦闘の余韻が広場に残っていた。石畳に堕聖体の痕が焦げている。遠くでまだ何かの音がしている。
月の使者は遥を見た。
そして——微笑んだ。
それが何を意味するのか、遥にはまだ分からなかった。




