第16話「三者の思惑」
午前中から、古鍛冶場がざわついていた。
廊下に聖痕者たちが集まって、声を落として話している。昨日まで三件だった依頼の掲示が、今日は八件になっていた。
朝の訓練を終えて中庭に戻ると、イグニスが腕を組んで立っていた。空を見上げていた。
「廃域が変わってきた」
誰に言うでもなく、呟くような声だった。
「変わった、というのは」
「堕聖体の動き方だ。夜にしか出ない個体が、昼間に目撃されている。それだけじゃない——複数が同じ方向に動いていた。あいつらに群れる習性はない。何かに引きつけられている」
遥は頷いた。
「廃域の深部の方向ですか」
イグニスが少し目を細めた。「……なんで分かる」
「リーセさんのデータと、合わせると、そうなります」
イグニスが黙った。否定はしなかった。
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その日の昼過ぎ、霊眼学院のリーセが来た。
受付に立ち寄らず、訓練場の脇に直接現れた。羊皮紙の束を両腕で抱えている。眼鏡の奥に、普段より少し鋭い色があった。
「直近三十日の観測記録だ。学院の術式で測定した」
資料を広げた。細かい数値と図表が並んでいる。
「廃域内の聖脈反応が、一ヶ月ごとに増加している。三ヶ月前から急激だ。増加率は均一ではない——深部ほど数値が高い」
遥は図を指でなぞった。数値は読めた。読めたから、余計に感触が悪かった。
「この増加、聖痕院には共有していますか」
「今日のお前が最初だ。院長への報告はこれから」
リーセが書類を畳んだ。「学院から教会には先週届けた。返答はない」
「教会からの返答が——ない」
「そうだ」
短く、乾いた答えだった。
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夕方、用件で市民区を歩いた。
大通りの真ん中に、人だかりができていた。
白鎧の聖脈騎士団が三名、霊眼学院の研究員と向かい合っている。声は聞こえないが、雰囲気は分かった。双方の肩に力が入っていた。
通行人が迂回している。目を伏せて、足早に通り過ぎていく。見て見ぬふりの仕方が、慣れているように見えた。
遥はその横を通った。誰も声をかけなかった。
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翌朝。
古鍛冶場の中庭で資料を整理していると、足音がした。
「遥さん!」
セラフィーナだった。少し駆け足で来ていた。
「今日、血施院の手伝いをお願いできますか。患者が増えていて、人手が……」
「行けます」
「よかった! では午後に——」
「待て」
声がした。
イグニスが中庭の入口に立っていた。腕を組んで、セラを見ている。
「今日は訓練だ」
「え、でも——」
「スケジュールは前から決まっている」
セラが困った顔をした。
そこへ、さらに音がした。
塀の際から、白衣の人影が入ってきた。リーセだった。資料を抱えている。
「霧島遥。昨日話した照合作業だが、今日の午後が都合いい。無限架に来てくれ」
「……今日はわたしが先にお願いしていました」とセラが言った。
「私は昨日話した」とリーセが言った。
「訓練が優先だ」とイグニスが言った。
三人が、それぞれ別の方向を向いたまま、互いを見合った。
空気が固まった。
遠くで鳩が鳴いた。
「……俺の事情は、聞かないんですか……」
三人が同時に遥を見た。
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結局、午前は訓練、昼はリーセの照合作業、夕方はセラの手伝い、という三分割になった。
誰も「それでいい」とは言わなかった。けれど誰も「だめだ」とも言わなかった。
遥は自分が何かの中心にいる気がしたが、何の中心なのかは分からなかった。
最後の手伝いを終えて血施院を出たセラが、帰り道に言った。
「なんか今日、三人で変な感じでしたね」
「そうでしたね」
「……何が変だったか、分かりますか?」
「みんな忙しそうだったので、俺の時間配分の問題かと」
セラが少し間を置いた。
「……そうですね! そういうことですね!」
なぜか声が大きくなっていた。
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夜、遥は一人で外に出た。
空を見上げた。
月が、細かった。
昨日より、確実に欠けている。三日月よりもさらに薄い、糸のような弧。でも明るかった。白すぎるほど白く、周囲の星を薄くさせるような光を放っていた。普通の月の光ではなかった。
【また薄くなった。また一枚、皮が剥げた】
声は短かった。すぐ消えた。
「遥」
振り返らなくても分かった。
ガルドールが隣に来ていた。いつの間に、という間合いだった。老人は遥と並んで、空を見上げた。
しばらく、二人で月を見た。
老人は何も言わなかった。
遥も何も言わなかった。
やがてガルドールが、小さく呟いた。
「そろそろだな」
遥は月を見たまま聞いた。
「何が、そろそろ何ですか」
老人は答えなかった。ただ夜空を見続けた。片目が、細い月の光を受けていた。




