第15話「名もなき詩人」
白骸廟から戻って二日が経った。
その日の夕方、訓練を終えて古鍛冶場の外に出ると——路地の角に、人が座っていた。
低い石壁の上に腰かけて、何かを食べている。金色の髪が風に揺れていた。道化師めいた衣装が夕暮れの光を受けて、そこだけが舞台の上のように明るい。
神殿の回廊で見た人だ。
こちらに気づいて、にこりとした。
「やっと来ましたね。霧島遥さん」
「……待っていたんですか」
「少しだけ。座りますか?」
遥は石壁の端に腰を下ろした。路地に人影はない。古鍛冶場の中からは訓練の音が聞こえていた。
「お名前を聞いてもいいですか」
「アウロラ・ダスク、と名乗っています」
「名乗っている、というのは」
「——ふふ。いい質問ですね」
笑顔のまま、何も答えなかった。
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「あなたのことを、三人が気にしていますよ」
突然、アウロラが言った。
「知っていましたか?」
「……誰ですか」
アウロラが遥を見た。じっと、表情を読むように。
「本当に分からないんですね」
「分かりません」
「——ふふ。それが一番、罪というものですよ」
遥は何を言われているのかよく分からなかった。アウロラはそれ以上説明しなかった。楽しそうに空を見上げた。
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「星の悪夢という言葉は知っていますか」
遥は少し考えた。「神域存在の一種だ、と聖痕院の人間から聞いたことがあります。詳しくは知りません」
「そうです。夢と現実の境界に棲む巨大な意識体——直接触れれば精神が崩壊する。でも」
アウロラが遥の方を向いた。
「あなたくらいの覚醒度なら、もうずっと前から声が聞こえているはずですよ。複数の声が、夜に」
遥は答えなかった。
「答えないということは、聞こえているということですね」
「……何がしたくて、教えてくれるんですか」
「別に、何も」アウロラは目を細めた。「知っておいた方がいいと思っただけです。あなたが聞いているのは星の悪夢の断片です。封じられているから届く声は小さい——でも、封印が緩めば緩むほど、大きくなる」
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「あなたの転移は、偶然ではありませんよ」
遥は少しの間、黙った。
「それは、分かっています」
「——あら」アウロラが少し目を丸くした。「もう気づいていたんですね」
「ガルドール院長が『来ると思っていた』と言いました。それだけで十分です」
「では——誰が、何のために?」
今度は遥が黙る番だった。
アウロラは笑顔のまま続けた。「それを知りたいなら、星の悪夢のことを調べてみるといいです。そして——あそこに何かいますよね」
路地の奥を指した。
遥は目を向けた。
いた。
路地の突き当たりに、人が立っていた。人の形をしているが、何かが違う。輪郭が、少し揺れている。
「見えていますか?」
「……見えています」
「月の使者です。神域存在の代理人——人間に近い形を取れますが、人間ではない。あなたくらいの覚醒度でないと見えません。大半の聖痕者でも気づかない」
遥は月の使者を見続けた。向こうは動かなかった。こちらを見ているのか、いないのかも、分からなかった。
「それは——俺に何かしようとしているんですか」
「今のところはただ、見ているだけだと思いますよ」
アウロラが立ち上がった。石壁から音もなく降りた。
「また話しましょう、霧島遥さん。あなたは、面白い」
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夕暮れの中、アウロラが路地の角を曲がろうとした——その瞬間だった。
影が、合っていなかった。
彼女の体は夕光の中に立っている。でも足元の影の形が——人間の輪郭をしていなかった。枝が広がるような、あるいは何本もの腕が伸びるような形が、一瞬だけ石畳に映った。
次の瞬間には、角を曲がって消えていた。
遥は石壁の上に座ったまま、しばらく動かなかった。
月の使者も、気づくと路地の奥からいなくなっていた。
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立ち上がろうとして、遥は止まった。
背後に気配があった。
振り返った。
誰もいない。古鍛冶場の壁と、夕暮れの石畳だけがある。
でも遥には分かった。
今、誰かに見られていた——そしてそれは、今日だけではない。
ずっと前から。




