第12話「壁ぎわの椅子」
深淵道を見た夜から、数日が経った。
訓練は続いていた。依頼の報告業務も続いていた。古鍛冶場の日常は変わらない。でも遥の中で、何かが微妙に変わっていた。
あの声のことを、どうしても考えてしまう。
【来い。来い。来い。お前だけが聞こえる】
封印の向こうから聞こえた声。全言語理解が勝手に翻訳した言葉。夜になると、その残響が頭の隅に戻ってくる。
誰かに話せることでもないので、古代文字の記録を引っ張り出して読んでいた。
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夜、食堂に一人でいた。
ランタンが一つ。テーブルの上に羊皮紙と手帳。他の聖痕者は夜の依頼に出払っていた。
扉が開いた。
イグニスだった。
遥を見て、一瞬止まった。「……まだいたのか」
「少し気になることがあって」
「何を読んでいる」
「深淵道の関連記録があるかと思って。聖痕院の保管文書の中に古いものがあったので」
イグニスは入ってきた。遥の斜め向かいの椅子を引いて、座った。
短刀を取り出して、手入れを始めた。
特に何も言わなかった。
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しばらく、二人とも黙っていた。
遥が羊皮紙をめくる音。イグニスが革布で刀身を拭く音。それだけが食堂の中にあった。
五分か、十分か。
「……聞いていいですか」
「何を」
「深淵道は、なぜあの場所に封印されているんですか」
少し間があった。
「詳しくは知らない。でも大啓示夜より前からあの場所はある。封印が何重にも重なっているのは——それが必要だからだ」
「つまり、何度も破られそうになった」
「そういうことだ」
遥は手帳に何かを書いた。
「深淵道の声が——怖くないですか」
イグニスが手を止めた。
答えなかった。
しばらく刀身を見たまま黙っていた。
「私には聞こえない」
それだけ言った。聞こえないから怖くない、という意味か。あるいは——何か別のことを言っているのか。
遥はそれ以上聞かなかった。
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もう少し経って、イグニスが手入れを終えた。短刀を鞘に収めて、立ち上がった。
出ていこうとして、テーブルの上に何かを置いた。
乾燥した果物が数個、布に包まれていた。
「食え」
それだけ言って、扉から出ていった。
遥は布の包みを見た。受け取った。一つ口に入れた。甘かった。
しばらくして、別の扉から若い聖痕者が一人、食堂に入ってきた。
「あれ、イグニスさんさっきいましたか?」
「はい」
「珍しい。夜にここで人と話すの、あんまり見たことないんですけど」
「そうなんですか」
「うん。遥さん、なんか特別扱いされてますよ」
遥は残りの果物を見た。
「そうは思いませんでしたが」
「そうですよ。気づいてないんですか」
聖痕者が笑いながら棚から何かを取って出ていった。
遥は少しの間、食堂に一人で残った。
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その夜、眠る前に声が聞こえた。
深淵道の声だ。夢の境界に紛れ込んでくるような、低い反響。
【——来い。お前だけが——】
遥は目を開けた。
古鍛冶場の天井だ。暗い。静かだ。
声は消えた。
でも今夜は——少しだけ、消えるのが惜しい気がした。あの声が何かを知りたいという気持ちが、怖いという気持ちより強くなってきていた。
それが良いことか悪いことか、まだ分からなかった。




