第11話「地下の声」
朝、古鍛冶場の門を出ると、イグニスが先に外にいた。
いつもと違った。
黒いコートがない。長袖の薄い上着に、動きやすそうな長ズボン。腰の短刀は変わらずある。でも鎧も外套もない、ただの私服だった。
「……見るな」
遥はまだ何も言っていなかった。
「見ていませんでした」
「今は見ていただろう」
「少しだけ」
イグニスが視線をそらした。顔の色が、わずかに変わっている。
「動きやすそうですね」
遥が言うと、イグニスがさらに顔を赤くした。「うるさい」
「褒めたつもりでしたが」
「黙れ。行くぞ」
遥は黙って後に続いた。なぜ怒っているのか、正確には分からなかった。
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今日の目的は、廃域の深部点検だった。
普段のパトロールより奥まで入り、異変がないか確認する。聖痕院が月に一度行う巡回で、通常は古参の聖痕者が二人以上で当たる。
市壁を越えると、いつもの廃域に入る。崩れた建物、伸びた草、石畳の割れ目——見慣れた景色だ。でも、さらに奥へ進むにつれ、様相が変わってきた。
建物の崩れ方が、違う。
十年二十年で崩れた廃屋ではなく、もっと長い時間をかけて崩れた建物だ。石が苔に覆われ、壁の継ぎ目が土に吸い込まれかけている。街路の石畳は地面と区別がつかなくなっている。
「古いですね」
「大啓示夜より前の区画だ。百五十年は誰も手をつけていない」
静かだった。
おかしなくらい、静かだった。いつもなら廃域で堕聖体の一体や二体には遭遇する。でも今日は——気配がない。
遥は言わなかった。でもイグニスも同じことに気づいているのが、歩き方の緊張感で分かった。
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大きな建物の残骸の影に、石段があった。
地面に降りていく、幅の広い階段。その先に——重い鉄の扉があった。
扉の表面は、文字と記号で埋め尽くされていた。何層にも重なった封印の刻印。世代が違う。字体が違う。それぞれの時代の手で、繰り返し追加されてきたのが分かる。
イグニスが立ち止まった。手が自然に短刀の柄に伸びた。
「止まれ」
「……あれは、何ですか」
「深淵道だ」
低い声で答えた。「地下に続く、封印された遺跡の回廊だ。禁足地——聖痕院どころか、四陣営全てが立入を禁じている。封印は定期的に更新されている。あそこには何も入れないし、何も出てこない」
遥は石段の上から扉を見た。近づいていない。でも——聞こえる。
扉の向こうから。
封印の向こうから。
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声だった。
一つではない。重なっている。あるいは一つの声が何度も繰り返されているのか、区別がつかない。
【来い。来い。来い。お前だけが聞こえる】
遥は動かなかった。
声は言語だった。遥には分かる。全言語理解が、聞きたくないものまで分からせる。あれは——何かを求めている声だ。飢えているような。待ち続けているような。
「霧島」
イグニスが名字で呼んだ。珍しかった。
「どうした。顔色が悪い」
「……声が聞こえます」
イグニスが固まった。
「扉の向こうから。来い、と言っています」
長い沈黙があった。
イグニスが静かに言った。「あそこには絶対に入るな」
命令ではなかった。命令の形をしているが、中身が違う。何かを——恐れている声だった。
「……分かりました」
「約束しろ」
「約束します」
イグニスは一度だけ深淵道の扉を見た。すぐに視線を戻した。「帰る」
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古鍛冶場の門をくぐると、ガルドールが中庭にいた。
何もしていなかった。ただ立っている。まるで最初からそこで待っていたかのように。
片目が、二人が入ってきた瞬間から動いていなかった。
「どこに行っていた」
遥を見ていた。イグニスではなく、遥を。
「廃域の深部です。イグニスさんと一緒に点検を」
沈黙。老人の目は遥の目から離れない。
「声を聞いたか」
ひやりとした。
「……はい」
「そうか」
それだけだった。
ガルドールはしばらく遥を見続けた。何かを確認するように。あるいは何かを測るように。
それから——ゆっくりと、片目を閉じた。
意味が分からなかった。
承認か。警告か。それとも——何か別のことを、言葉ではなく伝えようとしたのか。
老人はそのまま踵を返し、建物の奥に消えた。
遥はその場に立ち尽くした。




