第8話:習慣
その日は珍しく、朝から大学へ行った。教室の後ろの席に座り、適当にノートを開く。教授の声は相変わらず眠気を誘った。
ある人は講義に集中していて、ある人はスマホを見ていて、目の前の人は居眠りをしている。
みんな、ちゃんと日常を生きているように見えた。僕だけが、その輪郭から少しだけ外れている。
そんなことを考えながら、何気なくスマホを開く。眠気覚ましにニュースを眺めていると、見覚えのある文字があった。
―――氷食症。
僕は思わず記事を開く。
そこには、氷を大量に食べ続けてしまう症状について書かれていた。鉄欠乏性貧血やストレスが原因になることが多いらしい。
氷を噛むことで不安を紛らわせたり、落ち着きを得たりする人もいる、と。
画面をスクロールする指が止まる。氷を食べることで、何かを埋めようとする⋯⋯その文章を見た瞬間、彼女の横顔が浮かんだ。
コンビニの光の下で、静かに氷を噛む姿。
カラン、という乾いた音。
あの音は、何かが欠けている音だったのだろうか。でも、僕にはどうしてもそうは思えなかった。彼女に足りなかったものは、本当に鉄分だったのだろうか。
もっと別の、名前のつかない何かだったような気がする。
講義が終わる頃には、空はすっかり暗くなっていた。結局、その日の講義内容はほとんど覚えていない。
帰り道、コンビニへ向かう。
もう習慣になってきたようだ。
行かなければ落ち着かないし、でも、行ったところで何かが変わるわけでもない。
それでも足は自然とそこへ向かう。また店の前には誰もいなかった。
僕は缶コーヒーを買って外へ出る。夜風が少しだけ冷たい。彼女がいた場所を見る。もちろん、誰もいない。でも、そこにはまだ氷の音が残っている気がした。僕はベンチに座り、缶コーヒーを開ける。
何故か苦しかった。
そういえば、彼女が何を飲んでいたのかも知らない。
好きな食べ物も、好きな音楽も、何も知らない。知っているのは、氷を食べる音だけだった。
それなのに、僕は彼女のことを知っているような気になっていた。
少しだけ口元が緩む。
人を知るというのは、案外、そんなものなのかもしれない。
あるいは、僕が勝手に物語を作っていただけなのか。
そのとき、自動ドアが開く音がした。反射的に振り返る。知らない人だった。僕はまた前を向く。
コンビニの白い光が、アスファルトの上に滲んでいた。
その光を見ながら、ふと思う。もし彼女がもう来ないのだとしても。もし最初からいなかったのだとしても。
たぶん僕は、これからも夜になるたびにここへ来るのだろう。
そして、夜は静かだった。
静かすぎて、どこかでカラン、と音がした気がした。




