第4話:氷食症
大学の講義は退屈だった。
前の席では誰かが寝ていて、後ろの席では誰かが小声で話している。教授の声だけが教室の中を一定の速度で流れていった。
僕はノートを取るふりをしながら、スマホでニュースを眺めていた。
何となく開いた記事のタイトルに、指が止まる。
『氷を無性に食べたくなる症状―――氷食症とは』
思わず画面を見つめた。
記事によると、氷食症は貧血や強いストレスが原因で起こることがあるらしい。
氷を食べることで、不安や苛立ちを紛らわせようとする人もいるという。
僕はスマホを閉じた。
頭に浮かんだのは、あの少女だった。
カラン。
夜のコンビニ。
氷を噛む音。
あの音だけがなぜかずっと耳に残っていて、講義が終わったあとも、その記事のことが頭から離れなかった。
彼女は何かストレスを抱えているのだろうか。
気がついたらその事ばかり考えてしまう。
そのまま流れるように時間が過ぎ、夜になると、僕はいつの間にかコンビニへ向かっていた。
あの少女はまた、いつもの場所にいた。
そう、いつもの灯の下に。
でも、少しだけ違った。
顔色が悪い。
白い髪のせいだけじゃない。
どこか透明になりかけているみたいだった。
少女は今日も氷を噛んでいる。
カラン。
小さな音が夜に溶ける。
「どうしたの?」
僕が声をかけると、少女は少し驚いたように顔を上げた。
「あ、こんばんは」
相変わらず柔らかい声だった。けれど、どこかよそよそしい響きだ。僕は言葉に少し迷ったあと、口を開く。
「氷食症って知ってる?」
少女は数秒だけ黙った。
そして、小さく笑う。
「知ってるよ」
意外だった。
「知ってるんだ」
「うん」
少女は氷をひとつ口に入れる。
カラン。
「でも、私の場合は少し違うから」
「違う?」
少女は答えなかった。
代わりに夜空を見上げる。
「たまにさ」
ぽつりと言った。
「全部どうでもよくなる夜があるの」
風が吹いた。
川の匂いがした。
「誰にも会いたくなくなるし、何もしたくなくなる」
不思議な事を言った少女は、まだ続ける。
「自分が空っぽみたいに感じる時があるんだよね」
僕は何も言えなかった。
言葉が見つからなかった。
「朝になると治るんだけど」
少女は笑った。
でも、その笑顔は少しだけ寂しそうだった。
「だから朝は嫌いじゃないの?」
僕が訊く。
少女は首を横に振った。
「違うよ」
「じゃあ?」
少女はしばらく黙っていた。
そして小さく言った。
「朝になると、またちゃんと生きなきゃいけないから」
その言葉は、前にも聞いた気がした。
でも今日は、前よりずっと重く聞こえた。
僕は視線を落とす。
コンビニの袋を握る手に力が入った。
「僕も」
気づけば、そう口にしていた。
少女がこちらを見る。
「僕も、ちゃんと生きるの苦手かもしれない」
言った瞬間、少しだけ後悔した。
こんなことを誰かに話したのは初めてだった。
でも少女は笑わなかった。
否定もしなかった。
ただ静かに頷いた。
「やっぱり」
「え?」
「君、私に少し似てるから」
カラン。
氷の音が鳴る。
僕はその音を聞きながら、初めて自分の居場所を見つけたような気がした。
しばらく二人で黙っていた。
沈黙は不思議と苦しくなかった。
夜風だけが静かに通り過ぎていく。
やがて少女が立ち上がる。
「そろそろ帰るね」
「うん」
少女は数歩歩いたあと、ふと思い出したように振り返った。
「ねえ」
「なに?」
少女は少しだけ迷うような顔をした。
そして笑う。
「もし私が急にいなくなったら、君は探す?」
僕は答えに詰まった。
「……え?」
少女は小さく笑う。
「冗談」
そう言って踵を返した。
白い髪が夜の中へ溶けていく。
僕はその背中を見送ることしかできなかった。
そして、この時の僕は、まだ知らなかった。
あの「冗談」が、本当になる日が来ることを。




