第3話:海のない街
夜が少しだけ長く感じる日がある。
理由はわからない。ただ、世界が少し広く見える夜だ。
その夜、少女は先にコンビニの外に立っていた。
氷を噛んでいる。
カラン。
いつも通りの音なのに、今日は少し違って聞こえる。氷を口に入れる音が、何故か遠くに伸びていくような感じがした。
「歩く?」
少女がそう言うと僕は頷き、少女が導くように前に歩き出す。
目的地はなかった。ただ、コンビニの前に立っているだけじゃ足りない気がした。それは少女も同じだと思う。
何処かへ行けば、この夜の輪郭が少し変わる気がしたのだ。
川沿いに出ると、風が少し強くなった。水の流れる音が、遠くの何かの音と混ざっている。
少女は柵にもたれながら、氷を口に入れた。
カラン。
「この街さ」
少女が僕を見つめてゆっくり深呼吸をするように話しだした。
「たまに海の匂いしない?」
僕は一瞬、言葉に詰まった。
「……わかる」
海の匂い。僕が考えていたことと全く同じだ。心を読まれているのか。それとも気が合うのか⋯⋯。僕は後者だと思う。夜中にコンビニに行く趣味まで同じだったから。
湿った風。遠くで鳴る車の音。水みたいに広がる暗さ。
全部が、海に似ている。
人気のない公園に入ると、街灯だけがやけに明るかった。
「ここ、好きじゃない?」
「別に」
僕がそう言うと、少女は少しだけ笑った。
その笑い方は、昨日より軽くて優しかった。
自販機の前で立ち止まる。
僕は何となく、温かいお茶を買った。少女は氷を噛んでいる。
冷たいものと温かいものが、同じ夜に存在しているのが不思議だった。
「ねえ」
少女が言う。
「君って、朝ちゃんと起きる人?」
「一応」
「すごいね」
「どこが?」
「壊れてない感じ」
淡々《たんたん》とした会話の中で、その言葉だけが少しだけ胸に引っかかった。
壊れて、いない。染まっていないに近いニュアンスだろうか⋯⋯
それは褒め言葉なのか、そうじゃないのか、わからなかった。
歩道橋に上がると、街が少しだけ遠くなった。車のライトが流れていく。
少女は柵に手を置いて、下を見ていた。
「このまま日が昇ると」
少女がぽつりと言う。
「全部どうでもよくなるから好き」
僕は何も言えなかった。
それは救いみたいにも聞こえたし、全部を捨てているようにも聞こえた。どちらなのかはよくわからなかった。
カラン。
また氷の音がした。
「君は?」
少女が聞いた。
「朝、嫌い?」
すぐに答えられなかった。 嫌いかどうかじゃなくて、嫌いな自分を信じたくなかった。
「……好きじゃない」
そう答えると、少女は小さく頷いた。
「だよね」
それだけだった。でも、その会話が少しだけ優しかった。
僕らは歩道橋の上で、しばらく何も言わなかった。風だけが通り過ぎていく。
少女は最後にもう一度、氷を噛んだ。
カラン。
その音が少しだけ長く残った気がした。
「またね」
それが約束なのか、終わりなのかはわからない。でも僕は頷いた。
少女が踵を返して去っていく。僕は歩道橋の上から見守った。少女が居なくなっても、ずっと同じ方向を見つめていた。
夜が終わる少し前の時間。海のないはずの街に、まだ少しだけ、潮の匂いが残っていた。
海なんてないのに、確かにある気がする。
湿った風が頬に触れると、どこか遠くの水辺を思い出す。駅の向こう側から流れてくる車の音が、波みたいに途切れながら続いている。
そんな理由のわからない匂いだけが、夜の中に残っていた。




