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氷食症  作者: 篝乃逢音


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3/9

第3話:海のない街

 夜が少しだけ長く感じる日がある。


 理由はわからない。ただ、世界が少し広く見える夜だ。


 その夜、少女は先にコンビニの外に立っていた。


 氷を噛んでいる。


 カラン。


 いつも通りの音なのに、今日は少し違って聞こえる。氷を口に入れる音が、何故か遠くに伸びていくような感じがした。


 「歩く?」


 少女がそう言うと僕は頷き、少女が導くように前に歩き出す。


 目的地はなかった。ただ、コンビニの前に立っているだけじゃ足りない気がした。それは少女も同じだと思う。


 何処かへ行けば、この夜の輪郭が少し変わる気がしたのだ。  


 川沿いに出ると、風が少し強くなった。水の流れる音が、遠くの何かの音と混ざっている。


 少女は柵にもたれながら、氷を口に入れた。

 

 カラン。


 「この街さ」  


 少女が僕を見つめてゆっくり深呼吸をするように話しだした。


 「たまに海の匂いしない?」


 僕は一瞬、言葉に詰まった。


 「……わかる」  


 海の匂い。僕が考えていたことと全く同じだ。心を読まれているのか。それとも気が合うのか⋯⋯。僕は後者だと思う。夜中にコンビニに行く趣味まで同じだったから。

 

 湿った風。遠くで鳴る車の音。水みたいに広がる暗さ。


 全部が、海に似ている。


 人気ひとけのない公園に入ると、街灯だけがやけに明るかった。


 「ここ、好きじゃない?」


 「別に」


 僕がそう言うと、少女は少しだけ笑った。


 その笑い方は、昨日より軽くて優しかった。


 自販機の前で立ち止まる。


 僕は何となく、あたたかいお茶を買った。少女は氷を噛んでいる。


 冷たいものと温かいものが、同じ夜に存在しているのが不思議だった。


 「ねえ」


 少女が言う。


 「君って、朝ちゃんと起きる人?」


 「一応」


 「すごいね」


 「どこが?」


 「壊れてない感じ」


 淡々《たんたん》とした会話の中で、その言葉だけが少しだけ胸に引っかかった。  


 壊れて、いない。染まっていないに近いニュアンスだろうか⋯⋯


 それは褒め言葉なのか、そうじゃないのか、わからなかった。


 歩道橋に上がると、街が少しだけ遠くなった。車のライトが流れていく。


 少女は柵に手を置いて、下を見ていた。


 「このまま日が昇ると」


 少女がぽつりと言う。


 「全部どうでもよくなるから好き」  


 僕は何も言えなかった。


 それは救いみたいにも聞こえたし、全部を捨てているようにも聞こえた。どちらなのかはよくわからなかった。


 カラン。  


 また氷の音がした。


 「君は?」


 少女が聞いた。


 「朝、嫌い?」


 すぐに答えられなかった。 嫌いかどうかじゃなくて、嫌いな自分を信じたくなかった。


 「……好きじゃない」  


 そう答えると、少女は小さく頷いた。


 「だよね」


 それだけだった。でも、その会話が少しだけ優しかった。


 僕らは歩道橋の上で、しばらく何も言わなかった。風だけが通り過ぎていく。


 少女は最後にもう一度、氷を噛んだ。


 カラン。


 その音が少しだけ長く残った気がした。


 「またね」


 それが約束なのか、終わりなのかはわからない。でも僕は頷いた。


 少女がきびすを返して去っていく。僕は歩道橋の上から見守った。少女が居なくなっても、ずっと同じ方向を見つめていた。


 夜が終わる少し前の時間。海のないはずの街に、まだ少しだけ、潮の匂いが残っていた。


 海なんてないのに、確かにある気がする。


 湿った風が頬に触れると、どこか遠くの水辺を思い出す。駅の向こう側から流れてくる車の音が、波みたいに途切れながら続いている。


 そんな理由のわからない匂いだけが、夜の中に残っていた。

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