第九話 孤立から共生へ
第九話 孤立から共生へ
退院した日の空は、五月らしい柔らかな青だった。
病院の自動ドアが開くと、外の風がふわりと頬を撫でる。消毒液の匂いばかりだった空気から抜け出した瞬間、栄治は思わず深く息を吸った。
「無理しないでくださいね」
付き添いの看護師が言う。
「わかってる」
「絶対わかってない顔です」
栄治は苦笑した。
病院の前には、三浦結衣と滝川創、それから大河内厳まで来ていた。
「お、出てきた」
「まるで出所だな」
「縁起でもないこと言うな」
結衣は安堵したように笑った。
「坂本さん、顔色だいぶ良くなりましたね」
「飯がまずかったから痩せた」
「病院食に喧嘩売らないでください」
大河内は腕を組んだまま鼻を鳴らした。
「まったく、高齢者はこれだから困る」
「何だその言い方」
「倒れるなら昼間にしろ」
「選べるか」
だが、その声には以前ほどの刺々しさがなかった。
ひだまり荘へ戻ると、ベランダの植木が少し伸びていた。結衣が時々水をやってくれていたらしい。
部屋へ入った瞬間、栄治は立ち止まった。
畳。
流し台。
窓から入る夕方の光。
ほんの数週間前まで当たり前だった景色が、妙に愛おしく感じる。
「……帰ってきたな」
小さく呟く。
「大袈裟ですよ」
結衣が笑う。
「いや」
栄治はゆっくり部屋を見回した。
「帰る場所があるって、こういうことかもしれん」
その夜から、大河内の“見回り”が始まった。
朝。
管理室の窓が開く。
「おい坂本、生きてるか」
「うるさい」
昼。
「洗濯物ずっと出てるぞ」
「乾かしてるんだよ」
夜。
「電気点いてないが寝たのか」
「消してただけだ!」
栄治は苛立ちながらも、どこか可笑しかった。
以前なら、“監視されている”と腹を立てていたかもしれない。
だが今は違う。
あの夜。
畳の上で動けなくなった自分を思い出す。
誰にも気づかれなかったら。
もしあの通知がなかったら。
そう考えると、管理室から飛んでくるぶっきらぼうな声さえ、妙に温かかった。
ある日の午後。
ひだまり荘の共同廊下で、若い母親が困った顔をしていた。
「どうした」
「あっ……」
女は少し慌てた。
「棚が外れちゃって」
玄関脇の小さな収納棚が傾いている。
栄治はしゃがみ込んだ。
「ネジ山潰れてるな」
「やっぱりダメですか?」
「工具あるか?」
三十分後。
棚は綺麗に直っていた。
「すごい……!」
「これくらい普通だ」
「おじいちゃんありがとう!」
小さな男の子が笑う。
“おじいちゃん”。
その呼び方に一瞬だけ引っかかったが、不思議と嫌ではなかった。
別の日には、二階の老婆の蛍光灯を替えた。
「高いところ怖くてねぇ」
「脚立くらい呼べばいいだろ」
「誰を?」
その言葉に、栄治は黙った。
そうだ。
このアパートには、“ちょっと頼る相手”がいない人間が多い。
独り暮らし。
高齢。
非正規。
訳あり。
皆、ぎりぎりのところで生活している。
だが最近、その空気が少しずつ変わり始めていた。
「坂本さん、これ持ってって」
隣室の主婦が煮物を差し出す。
「多く作りすぎたから」
「また餌付けか」
「それ好きですねぇ」
夕方には、ひだまり荘の前で小さな立ち話が生まれるようになった。
「今日は暑いねぇ」
「坂本さんまた掃除してる」
「大河内さん、草ボーボーですよ」
「うるせえ」
笑い声。
洗濯物の匂い。
どこかの部屋から漂う焼き魚の匂い。
以前はただ古びて見えたアパートが、今は妙に生き物みたいだった。
ある夜。
栄治が共同廊下を掃いていると、大河内が缶コーヒーを持って現れた。
「ほら」
「珍しいな」
「たまにはな」
二人でベランダへ並ぶ。
遠くで電車が走る音。
夜風は少し湿っていて、夏の気配を含んでいた。
「……変わったな」
ぽつりと大河内が言う。
「何が」
「このアパートだよ」
栄治は黙って缶コーヒーを開けた。
「前はもっと静かだった」
「悪い意味でか」
「ああ」
大河内は遠くを見る。
「誰が住んでるのかも知らん。死んでも気づかんような場所だった」
その言葉に、栄治は少しだけ胸が痛んだ。
「でも最近はうるせえ」
「文句か」
「違う」
大河内は笑った。
本当に、少しだけ。
「人の音がする」
風が吹き抜ける。
どこかの部屋でテレビの笑い声が響いた。
栄治は缶を見つめながら、小さく言った。
「独りなのは変わらんけどな」
「まあな」
「でも前より、静かじゃない」
その瞬間、ひだまり荘の灯りが一つ、また一つと夜へ浮かび上がった。
窓の向こうには、それぞれの生活がある。
疲れて帰る人。
テレビを見る人。
湯を沸かす音。
誰かの咳払い。
ほんの小さな生活の気配。
栄治はその灯りを見上げながら、ゆっくり息を吐いた。
孤独は消えない。
だが、人はたぶん。
ほんの少しの声と灯りで、生き直せるのかもしれなかった。




