第八話 綻びとSOS
第八話 綻びとSOS
三月の終わりだった。
ひだまり荘の前の桜は、まだ半分ほどしか咲いていない。冷たい風が吹くたび、薄桃色の花びらがちらちら舞った。
坂本栄治は、アパート前の掃き掃除を終え、腰を伸ばした。
「坂本さん、また掃除してる」
二階の住人の老婆が笑う。
「暇だからな」
「大家より働いてるよ」
「聞こえてるぞ」
管理室から大河内厳の声が飛んできた。
最近のひだまり荘には、少しだけ笑い声が増えていた。
栄治は、いつの間にかこの場所の生活へ溶け込み始めていた。
切れた電球を替えたり。
壊れた棚を直したり。
重い荷物を運んだり。
元技術職の手は、まだちゃんと動いた。
「坂本さん、今日うち来ません?」
夕方、「みどりエステート」へ顔を出すと、三浦結衣がコーヒーを差し出しながら言った。
「カレー作るんです」
「また餌付けか」
「だからその言い方やめてください」
結衣は笑った。
その笑顔を見るたび、栄治は少しだけ救われる。
誰かと他愛ない話をする。
それだけで、人間は随分違うのだと最近わかってきた。
だが、その夜だった。
違和感は、ほんの小さなものから始まった。
茶を淹れようとして立ち上がった瞬間、視界がふらりと揺れた。
「……?」
壁が波打つ。
右の耳の奥で、キーンという音が鳴った。
栄治は眉をしかめる。
「疲れたか」
最近、少し無理をしていた。
掃除。
買い物。
頼まれごと。
“役に立てる”のが嬉しくて、つい動きすぎた。
流し台へ向かおうとした瞬間だった。
ぐらり、と世界が傾いた。
「っ……!」
膝が抜ける。
手を伸ばす。
だが指先は空を掴み、そのまま畳へ倒れ込んだ。
鈍い衝撃。
息が詰まる。
「……くそ」
起き上がろうとしても、右腕に力が入らない。
視界が滲む。
天井が遠い。
冷や汗が首筋を伝った。
脳梗塞。
五年前、医者に言われた言葉が蘇る。
『再発には気をつけてください』
呼吸が浅くなる。
助けを呼ぼうとしても、声がうまく出ない。
「……っ」
畳の匂い。
夕飯の味噌汁の匂い。
窓の外では子どもの笑い声。
世界は普通に動いているのに、自分だけが床へ沈んでいく。
時間の感覚が曖昧になる。
どれくらい経ったのかわからない。
喉が渇いた。
だが動けない。
流し台は数歩先なのに、果てしなく遠かった。
怖かった。
あの孤独死の部屋が頭をよぎる。
開け放たれた窓。
腐臭。
運び出される荷物。
「……嫌だ」
掠れた声が漏れる。
「まだ……」
死にたくない。
そう思った瞬間だった。
一方そのころ、「みどりエステート」の事務所で、結衣のスマホが震えた。
「え?」
画面には通知。
『ひだまり荘203号室 生活反応低下』
結衣の顔色が変わる。
「滝川さん!」
奥にいた滝川創が顔を上げた。
「どうしました」
「坂本さんの部屋、二十四時間水道反応なしです」
滝川の表情が一瞬で引き締まる。
「電話は?」
「固定電話、出ません」
結衣はすぐ大河内へ連絡した。
『もしもし』
「大河内さん! 坂本さんの反応止まってます!」
一瞬の沈黙。
『……すぐ行く』
十五分後。
ひだまり荘の前へ車が滑り込む。
夜風は冷たく、桜が揺れていた。
「鍵!」
結衣が叫ぶ。
「ある!」
大河内は管理室から合鍵を掴み、階段を駆け上がった。
「坂本さん!」
ドアを叩く。
返事はない。
滝川が低く言った。
「開けます」
鍵が回る。
がちゃり。
ドアが開いた瞬間、三人は息を呑んだ。
栄治が畳に倒れていた。
「坂本さん!」
結衣が駆け寄る。
顔色は青白く、額には汗。呼吸は浅い。
「救急車!」
滝川がすぐ電話をかける。
大河内は膝をつき、栄治の肩を揺らした。
「おい! 聞こえるか!」
栄治は薄く目を開けた。
ぼやけた視界の中、大河内の顔が見える。
「……大家」
「馬鹿野郎」
大河内の声が震えていた。
「返事くらいしろ」
結衣の目には涙が浮かんでいる。
「よかった……」
その声を聞いた瞬間、栄治の胸の奥で何かが崩れた。
誰かが来てくれた。
気づいてくれた。
独りじゃなかった。
遠くで救急車のサイレンが近づいてくる。
赤い光が窓へ反射した。
担架へ乗せられる瞬間、栄治はかすれた声で呟いた。
「……見てたんだな」
大河内が顔をしかめる。
「当たり前だ」
「監視じゃ……なかった」
結衣が泣き笑いみたいな顔になる。
「だから言ったじゃないですか」
救急隊員たちが慌ただしく動く。
春の夜風が部屋へ吹き込み、テーブルの上の湯呑みから、もう冷えた茶の匂いが漂っていた。
窓の外では、ひだまり荘の灯りが静かに並んでいた。




