第七話 ひだまり荘の新たな風
第七話 ひだまり荘の新たな風
引っ越しの日は、よく晴れていた。
冬の空は青く高く、冷たい風の中にも少しだけ春の匂いが混じっている。
坂本栄治は、安宿の四畳半で最後の荷物を段ボールへ詰めていた。
工具箱。
黄ばんだアルバム。
妻の湯呑み。
それだけだった。
「荷物、少ないですね」
三浦結衣が部屋を見回して言う。
「長く住むつもりじゃなかったからな」
栄治は苦笑した。
薄い布団を丸めながら、部屋を見渡す。
染みだらけの壁。
軋む床。
夜中に何度も目を覚ました天井。
嫌な思い出ばかりだったはずなのに、いざ出るとなると少しだけ胸が詰まる。
「世話になったな」
誰に言うでもなく呟いた。
「何か言いました?」
「いや」
結衣は笑いながら段ボールを持ち上げる。
「坂本さん、重いの持たないでくださいよ」
「俺を何歳だと思ってる」
「六十七です」
「まだいける」
「そう言って腰やるんです」
軽口を叩きながら階段を降りる。
安宿の主人が受付から顔を出した。
「お、今日出るんだっけ」
「ああ。世話になった」
「ちゃんと部屋見つかってよかったなぁ」
栄治は少し照れくさくなり、頭を掻いた。
“ちゃんと部屋がある”。
その言葉だけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
ひだまり荘へ着くと、大河内厳が腕を組んで待っていた。
「遅い」
「十分前だろ」
「年寄りは早く来るもんだ」
「そっくり返すぞ」
大河内は鼻を鳴らしたが、その口元は少しだけ緩んでいた。
結衣が小声で囁く。
「最近ちょっと機嫌いいんですよ」
「聞こえてるぞ」
冬の日差しが、古いアパートの廊下を照らしていた。
以前来たときより、建物が少し明るく見える。
部屋の鍵を受け取った瞬間、栄治の指先がわずかに震えた。
「……本当に、ここでいいのか」
「今さら何言ってんだ」
大河内はぶっきらぼうに言う。
「契約も済んだ。逃げるなら今だけだぞ」
「逃げん」
「なら入れ」
鍵を回す。
がちゃり、と音がした。
六畳一間。
小さな流し台。
窓から入る冬の日差し。
畳の匂い。
静かだった。
だが安宿の静けさとは違う。
ここには、“自分の生活”を置ける気がした。
栄治はゆっくり部屋へ入った。
畳を踏む感触が柔らかい。
窓を開けると、冷たい風と一緒に遠くの子どもの声が聞こえてきた。
「……悪くない」
ぽつりと漏れる。
結衣が嬉しそうに笑った。
「でしょ?」
そのとき、大河内が咳払いした。
「ただし条件は忘れるなよ」
「ああ」
机の上には小さな機械が置かれていた。
白い四角い端末。
「見守りシステムだ」
大河内が指差す。
「電気と水道の使用状況で異常を確認する。一定時間反応なきゃ連絡が行く」
栄治は眉をしかめた。
「やっぱり監視されてるみたいだな」
「死なれるよりマシだ」
「縁起でもないこと言うな」
結衣が慌てて割って入る。
「これ、スマホのアプリ連動なんですけど、坂本さんスマホないから、通知は私と滝川さんと大河内さんに行く設定にしてあります」
「便利なんだか不便なんだか」
「今どき珍しいですよ、スマホ持ってない人」
「字が小さすぎるんだよ」
大河内が鼻で笑った。
「時代遅れだな」
「うるさい偏屈大家」
「誰が偏屈だ」
結衣は吹き出した。
その笑い声が、がらんとしていた部屋へ広がる。
午後になると、滝川創も顔を出した。
「入居おめでとうございます」
手には小さな観葉植物。
「なんだこれ」
「祝いです。世話しやすいやつ選びました」
小さな緑が窓際に置かれる。
それだけで部屋の空気が少し柔らかくなった。
「坂本さん」
滝川は穏やかに言った。
「これで終わりじゃないですからね」
「何が」
「“住めた”のはスタートです」
栄治は黙って窓の外を見た。
ベランダでは隣の部屋の老婆が洗濯物を干している。下では小学生が走り回り、自転車のベルが鳴った。
生活の音だ。
誰かが生きている音。
それが妙に胸へ沁みた。
夕方、皆が帰ったあと、部屋は急に静かになった。
栄治は段ボールを開き、妻の写真立てを取り出す。
若い頃、旅行先で撮った写真だった。
「……引っ越したぞ」
小さく呟く。
返事はない。
だが、安宿の四畳半で感じていた冷たい孤独とは違った。
ここには、自分の匂いを置いていける。
台所へ立つ。
鍋に水を入れ、ガスを点ける。
青い火がぼっと灯った。
その瞬間、机の上の白い端末が小さく点滅した。
「あ?」
説明書を思い出す。
“生活反応を検知しました”。
栄治は苦笑した。
「見てるのかよ」
誰に言うでもなく呟く。
だが、不思議だった。
数日前まで、その“見られている”ことが嫌だったはずなのに。
今は少しだけ違う。
もし倒れても、誰かが気づく。
もし何かあっても、完全には消えない。
その事実が、胸の奥をほんの少し温めていた。
湯気の立つ急須を前に、栄治は畳へ座った。
窓の外では、ひだまり荘の部屋に一つ、また一つと灯りが点いていく。
夕暮れの中、小さな生活の光が並んでいた。
栄治はその光景を見つめながら、静かに茶を啜った。




