第六話 契約の条件、覚悟の選択
第六話 契約の条件、覚悟の選択
雨だった。
朝から冷たい雨が降り続き、街は灰色に沈んでいる。歩道には濡れた落ち葉が張り付き、通り過ぎる車が水を跳ね上げていた。
坂本栄治は安宿の窓際に座り、古びた封筒をじっと見ていた。
机の上には数枚の契約書類。
“死後事務委任契約”。
黒々とした文字が並んでいる。
自分が死んだあと、部屋の片付けを誰に頼むか。遺品整理をどうするか。火葬、行政手続き、公共料金の停止。
人生の終わりを、書類で予約するような紙だった。
「……嫌な言葉だ」
思わず呟く。
部屋には雨音だけが響いていた。
そのとき、電話が鳴った。
安宿の古い固定電話だった。
「もしもし」
『坂本さん? 三浦です』
「結衣か」
『今日、大河内さんのところ行きます』
栄治は無意識に背筋を伸ばした。
『滝川さんも一緒です。もう一回、話してみようって』
「……無駄じゃないのか」
『無駄かどうか、決めるのはまだ早いです』
電話越しの声は、少しだけ強かった。
『坂本さんも来てください』
午後二時。
ひだまり荘は雨に濡れていた。
古い階段から雨水がぽたぽた垂れ、花壇のパンジーが頭を下げている。
管理室の引き戸を開けると、灯油ストーブの匂いがした。
大河内厳は湯呑みを手に、難しい顔をして座っている。
「また来たのか」
「こんにちは」
結衣は頭を下げた。
その隣で、滝川創が柔らかく笑う。
「今日はご提案がありまして」
「提案ねぇ」
大河内は露骨に嫌そうな顔をした。
狭い管理室には、雨音とストーブの微かな燃焼音が満ちている。
滝川は資料を広げた。
「坂本さんについてですが、見守りサービスの導入、それから死後事務委任契約を前提に入居をご検討いただけないかと」
「死後事務?」
「万が一の際、家財整理や行政手続きは法人側で責任を持ちます」
大河内は鼻を鳴らした。
「紙切れだろ」
「契約です」
「制度があっても、最後に見取るのは誰だ」
その声は低かった。
「人はな、契約書じゃ死なねえんだよ」
滝川は黙った。
結衣も言葉を失う。
外で雨が強くなる。
窓ガラスを叩く音がやけに大きい。
「俺はな」
大河内は湯呑みを置いた。
「前に一回、借主を部屋で死なせてる」
栄治は顔を上げた。
「発見したのは俺だ」
大河内の目は、どこか遠くを見ていた。
「夏だった。新聞が溜まっててな。嫌な予感して開けた」
ストーブの火が小さく揺れる。
「臭いがな……今でも取れん」
声が少しかすれた。
「畳も腐ってた。蝿が飛んでた。あの部屋、半年決まらなかった」
管理室の空気が重く沈む。
「遺族は?」
滝川が静かに聞く。
「相続放棄だ」
大河内は笑った。
乾いた、疲れた笑いだった。
「最後は全部こっちだよ」
栄治は拳を握った。
責められない。
この男もまた、怖がっている。
「……大河内さん」
栄治はゆっくり口を開いた。
三人の視線が集まる。
「俺、あんたに無理やり貸せとは言わん」
「坂本さん」
結衣が小さく止めようとする。
だが栄治は続けた。
「でもな、俺だって好きで独りになったわけじゃない」
雨音が続く。
「妻が死んで、会社も潰れて、気づいたら保証人もいなくなってた」
自分の声が、思ったより静かなことに驚く。
「真面目に働いてきたつもりだ。税金も払った。遅刻もほとんどしたことない」
鉄の匂い。
工場の熱気。
若かった頃の自分。
全部が頭をよぎる。
「それでも、歳取ったら“死ぬかもしれない人間”として見られる」
大河内は黙って聞いている。
「悔しいよ」
その言葉は自然に出た。
「正直、惨めだ」
結衣が目を伏せた。
栄治は鞄から封筒を取り出した。
「これ、契約書だ」
大河内が視線を落とす。
「死後事務委任契約。俺が死んだあとの片付けも頼む」
「……」
「見守りも入る。倒れたら連絡も行く」
栄治は息を吐いた。
「情けねえ話だよな。自分の死んだあとの始末まで、先に決めとくなんて」
雨音が遠くなる。
管理室の中だけ、時間が止まったみたいだった。
「でも」
栄治はまっすぐ大河内を見る。
「それでも、俺はまだ生きたい」
大河内の眉がわずかに動く。
「独りでも、ちゃんと暮らしたいんだ」
その瞬間、管理室の空気が少し変わった気がした。
大河内は煙草を取り出しかけ、やめた。
深く息を吐く。
「……あんた、頑固だな」
「よく言われる」
「面倒な爺さんだ」
「そっちは偏屈な大家だろ」
一瞬だった。
大河内の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
結衣が驚いた顔をする。
滝川は静かに笑っていた。
「すぐ返事はできん」
大河内は低く言った。
「だが……考える」
外では雨が少し弱まっていた。
帰り道、結衣は傘を差しながら興奮気味に言った。
「今の、“考える”ってかなり前進ですよ!」
「そうか?」
「大河内さん、いつもなら即断りですもん!」
滝川も頷く。
「ちゃんと伝わったんだと思います」
栄治は濡れた道路を見つめた。
アスファルトに街灯が滲んでいる。
「……疲れた」
「そりゃそうですよ」
「自分の死に方を説明するのって、こんな疲れるんだな」
結衣は少し黙ってから言った。
「でも坂本さん、今日すごかったです」
「何が」
「ちゃんと、“住みたい”って言ってました」
栄治は足を止めた。
雨上がりの空に、薄く夕焼けが滲んでいる。
住みたい。
その言葉を、自分はまだ持っていたのかもしれない。
そう思った瞬間、冷え切っていた胸の奥に、小さな熱が灯った気がした。




