第五話 法改正と差し伸べられた手
第五話 法改正と差し伸べられた手
十二月に入ると、街の空気は急に乾いた。
朝、安宿の窓を開けると、白い息がふわりと浮かぶ。遠くで工事現場の金属音が響き、曇った空の下を通勤客たちが足早に歩いていく。
坂本栄治は湯呑みを両手で包みながら、小さく息を吐いた。
昨夜もあまり眠れなかった。
向かいのアパートで起きた孤独死の光景が、頭から離れない。
防護服。
腐臭。
運び出される段ボール。
あれは他人事ではない。
そう思ってしまった瞬間から、夜の静けさが怖くなった。
玄関のドアが叩かれたのは昼前だった。
「坂本さん、いますか?」
結衣の声だった。
「開いてる」
ドアが開き、冷たい外気と一緒に三浦結衣が入ってくる。今日は分厚いベージュのコートを着ていて、頬が少し赤い。
「寒っ……この部屋、暖房つけてないんですか?」
「節約だ」
「またそんなこと言って」
結衣はコンビニの袋を机に置いた。
「肉まん買ってきました」
湯気の立つ匂いが、部屋の冷えた空気に広がる。
栄治は少しだけ笑った。
「最近、餌付けされてる気分だな」
「ちゃんと食べない人が悪いんです」
結衣は鞄から分厚い封筒を取り出した。
「それで今日、本題なんですけど」
「本題?」
「ちょっと希望が見えてきました」
その言葉に、栄治は眉を動かした。
結衣は机にパンフレットを並べ始める。文字だらけの紙。行政のマーク。見慣れない単語。
「最近、高齢者の賃貸問題が増えてて、国も制度を変え始めてるんです」
「制度?」
「住宅セーフティネットとか、見守り支援とか……あと、身元保証サービス」
栄治は眉間に皺を寄せた。
「難しい話は苦手だ」
「簡単に言うと、“保証人がいない高齢者でも住める仕組み”を作ろうって流れです」
栄治は黙った。
結衣は少し前のめりになる。
「もちろん全部うまくいってるわけじゃないです。でも、前より選択肢は増えてます」
「……そんなもので大家が納得するのか」
「そこなんです」
結衣は真剣な顔になった。
「今日、会ってほしい人がいます」
一時間後。
二人は駅前の雑居ビルにいた。
三階。
古びたエレベーターを降りると、小さな看板が見える。
『NPO法人 シニア安心ネットワーク』
ガラス扉の向こうには、観葉植物と古いソファが置かれていた。コーヒーの匂いが漂っている。
「どうぞ」
奥から現れた男は四十代半ばくらいだった。細身で、柔らかい目をしている。ネクタイは少し曲がっていた。
「滝川創です」
差し出された名刺を、栄治はじっと見る。
「NPO……」
「怪しいと思いました?」
滝川は笑った。
「いや」
「半分くらいの人に言われます」
その言い方が妙に自然で、栄治は少し肩の力が抜けた。
三人は小さなテーブルについた。
湯気の立つコーヒー。
窓の外では曇り空が広がっている。
「三浦さんから事情は聞いてます」
滝川はゆっくり言った。
「保証人がいない。それで入居を断られている」
「……まあな」
「よくあるケースです」
その“よくある”という言葉が、栄治には少し引っかかった。
「珍しくもないってことか」
「残念ながら」
滝川は静かに頷いた。
「でも今は、昔みたいに“家族だけが保証人”って時代じゃなくなってきてるんです」
「他人が保証するのか」
「はい。法人が入るケースもあります」
滝川は資料を開いた。
「例えば、見守りサービス。一定時間、水道や電気が使われなかったら通知が行く仕組みです」
「監視されるみたいだな」
「そう感じる人もいます」
「実際そうだろ」
滝川は否定しなかった。
「でも、“誰にも気づかれない”よりはいい」
その言葉に、栄治は黙る。
向かいのアパート。
あの開いた窓。
腐臭。
突然、全部が蘇った。
「あと、身元保証サービス」
滝川は続ける。
「入院時の保証、緊急連絡先、亡くなったあとの家財整理の手続きまで、事前契約で支援する仕組みです」
「死んだあとのことまで?」
「はい」
栄治は思わず顔をしかめた。
「そこまで考えなきゃならんのか」
「現実としては」
滝川の声は静かだった。
「大家さんたちは、“住んでる間”より“亡くなったあと”を怖がっています」
結衣が小さく頷く。
「大河内さんも、そうでした」
栄治は深く息を吐いた。
自分が荷物のように扱われている気がする。
だが一方で、その不安も理解できてしまう。
「嫌な時代だな」
ぽつりと漏れる。
「一人で死ぬ準備まで契約か」
滝川は少し考えてから言った。
「でも、逆だと思うんです」
「何が」
「昔は、“家族がいる前提”で社会が回ってた。でも今は違う」
窓の外で、風がビルを鳴らした。
「だから、“一人でも生きられる仕組み”を作らなきゃいけない」
栄治はコーヒーを口に運んだ。
少し苦い。
だが、冷えた体には温かかった。
「坂本さん」
結衣が遠慮がちに言う。
「試してみませんか」
「何を」
「この制度」
栄治はすぐには答えなかった。
“見守り”。
“死後事務”。
そんな言葉を受け入れることは、自分が“弱者側”へ移ったと認めるようで苦しかった。
だが。
拒み続ければ、部屋は見つからない。
安宿の四畳半で、静かに歳を取っていくだけだ。
「……情けねえな」
栄治は笑った。
「六十七にもなって、人に世話される前提で部屋探しか」
「情けなくなんかないです」
結衣が即座に言った。
強い声だった。
「坂本さん、ちゃんと生きようとしてるじゃないですか」
栄治は目を伏せた。
その言葉が、胸の奥にじんわり広がる。
滝川も静かに笑った。
「一人で生きるって、案外“助けを借りる能力”かもしれませんよ」
窓の向こうでは、冬の雲の切れ間から、少しだけ陽が差し始めていた。




